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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【観音堂の柱に貼り付けられた不動明王の剣】 前回記した、また別のお寺にある観音堂の柱に貼り付けられた不動明王の剣です。ただ、不思議なことは、『新編会津風土記』には不動堂がこのお寺の境内に建てられていると『新編会津風土記』に記されているのですが、観音堂に関する記述はまったくありません。 こうしたことは『新編会津風土記』では珍しいことではなく、『新編会津風土記』に記されていないお堂に何回も出会っています。また、本来は観音堂が建てられていることは考えられない宗旨のお寺の境内に、観音堂が建てられているケースも少なくありません。また「天正十八年火災に罹り殿堂什器及太子の像も焼け失せたり、夫より世々太子守宗の僧住せり」と『新編会津風土記』に記されている太子堂が残っている村もあります。 ですから、『新編会津風土記』だけを調べて、会津の歴史を考えると、現実とはまったく異なった歴史が書かれてしまいます。何回も記しましたが、『新編会津風土記』に記されている寺社に関する部分は、『寛文風土記』を編纂するために、保科正之公の命によって寛文四年(1664)行われた寺社改めの時に、寺社から提出された文書がそのまま載せられていると、『新編会津風土記』自身の凡例に記されています。 そして、「天正十八年火災に罹り殿堂什器及太子の像も焼け失せたり」と記されていますが、おそらく、伊達政宗が会津に侵攻した時に焼かれたのであろうと思われますが、しかし、伊達政宗が会津に侵攻した時の侵入経路を考えると、随分離れたところにある村です。そして、「夫より世々太子守宗の僧住せり」と書かれていますが、蒲生氏郷が会津に移封されたのも天正十八年(1590)のことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.22 15:24:20
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