|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【磐梯山と猪苗代湖】 去年の3月9日、快晴だったので磐梯山と猪苗代湖の写真を撮りに出掛けました。上の写真は、長瀬川に架けられている橋の上から撮った写真です。下の写真は、猪苗代湖の北西部にある長浜というところから東の方を向いて撮った写真です。 「土津様」の墳墓があるところは、右側のスキー場の最下部に建物がありますが、そのすぐ下に写っている濃緑色の林の中です。あの墳墓の上に立って南を向いたら、猪苗代湖のほぼ全域を見ることが出来るだろうと思いますが、墳墓内は立入禁止になっています。 ですから、猪苗代湖の湖岸でその部分が見えるところは、墳墓の頂から見えるということになりますが、保科正之公はあの場所がことのほかお好きだったので、亡くなられた後、家臣達が現在はスキー場がある赤埴山の頂に登って、墳墓を築く場所を選んだと『会津藩家世実紀』に記録が残っています。 会津のキリシタン史を解明するのは、ここから始めると答えに行き着くのはかなり容易です。保科正之公の生母、お静の方の実家がキリシタンであったこと、そして、幸松(保科正之公)が保科家に養子に入ったのは元和三年(1617)で、幸松は慶長十六年(1611)生まれですから、伊那高遠の保科家に養子に入った時には、幸松は数え歳七歳だったということになります。こうしたことを前提に、保科正之公以降の会津藩の対キリシタン政策を『会津藩家世実紀』から抽出して考えると、会津のキリシタン史の根底に流れている、特別なことが容易に見えてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.23 07:28:09
コメント(0) | コメントを書く |