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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の不思議なお寺】 伊那高遠のとある村にある曹洞宗のお寺の庭に上の写真に写っている観音菩薩石仏があります。そして、村からこのお寺に上がってくる参道脇に下の写真に写っている「ハッキュウウ」が彫られた石碑が建てられています。非常に興味深いことですが、旧高遠藩領内には裏山に三十三観音石仏が並べられている臨済宗のお寺があったり、不思議な文字列が彫られた墓石が残っている墓地に、十字墓が多数残っていたりします。 「元禄二年閏正月十五日、切支丹宗門類族之者従公儀御赦免、 これは『会津藩家世実紀』に残っている記録です。武川源助は高遠以来の保科家の家臣です。内藤勝左衛門は武川源助の弟かもしれません。この内藤家は長男だけが武川姓を名乗っていました。そして、神尾伝左衛門は保科正之公の生母、お静の方の実家の当主であろうと考えられます。ですから、伊那高遠の樹林寺にあるお静の方の供養塔として建てられた五輪塔に「法紹日恵大姉淑霊」と彫られていることも理解できます。 そして、もう一つ大きな疑問があります。「切支丹宗門類族之者従公儀御赦免」と記されていることです。これらの転切支丹類族を幕府の指示に従って類族御免にしているということです。元禄二年は1689年です。当然のこととして、会津でも宗門人別制度が施行されていた時代です。その時代に「類族御免」になるということは、絵踏の日に絵踏をしなくていいだけではなく、転切支丹類族ではなくなるということなのですが、彼らが転んだことがはっきりする文言は記されていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.04 16:26:52
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