|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の石碑列】 伊那高遠の比較的山間部の村々にある石碑列を撮った写真です。どれもここで一度はご紹介していますが、これらは比較的小さな石碑ですが、家々の戸数が多い村には、大きな石碑が残っているところもあります。『高遠町誌』によれば、庚申の年に「庚申」碑を、甲子の年に「甲子」碑を、村々が大きさを競って建てたとされています。 これに関しては何回も記してきましたが、庚申のマツリは庚申の日のマツリで、年は関係がありません。甲子祭は大黒天のマツリで、これも甲子の夜に大黒天を祀る習慣です。甲子の年ではありません。ですから、これらの「庚申」碑や「甲子」碑は、そうした宗教的習慣から始まったことではなさそうです。 それだけではありません。旧高遠藩領内でも内藤家が高遠藩主になってから成立した村にも、「庚申」碑や「甲子」碑が建てられています。そして、同じところに「二十三夜」と彫られた石碑が建てられているところもありますし、「道祖神」と彫られた石碑が建てられているところもあります。そして、2枚目と3枚目には「双体道祖神」も集められていて、3枚目の写真の双体道祖神はここで何回もご紹介したことがありますが、旅装束を着た男女が彫られている「双体道祖神」です。 伊那高遠で気になっていることの一つは、お静の方は生前に日蓮宗に帰依していたから、日蓮宗のお寺で葬儀が執り行われたと考えられていますが、お静の方が亡くなられたのは寛永十二年(1635)です。この時にはまだ、宗門人別制度の施行命令は幕府から出されていません。そして、その時に葬儀を執り行ったお寺は、保科正之公と共に会津に入って来ています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.06 20:20:36
コメント(0) | コメントを書く |