|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠のとある神社と石碑列】 これは伊那高遠のとある村にある神社です。内部には大きな祠がありますが、近年になって、この祠が腐食するのを防ぐために、大きな建物が建てられたのであろうと思われます。ただ、屋根には堅魚木も千木もありませんし、一般的な神社の屋根の形とは異なっています。そして、伊那高遠にはこうした神社が他にいくつもあります。 ある神社が気になって出掛けたのですが、麓にある拝殿の裏には、獣除けの針金が張られた電気の通っている施設があったので、そこから奥へ行くことは諦めました。伊那高遠だけでなく、伊那谷全域にそうした獣除けが見られます。主に鹿除けのようです。 そして、3枚目の写真はとある村の道路脇に並べられていた石碑と双体道祖神ですが、この後ろの小高いところには日蓮宗のお寺があります。保科正之公の生母、お静の方の葬儀を執り行ったと『会津藩家世実紀』に記されているお寺なのですが、お静の方が亡くなられたのは寛永十二年のことです。この時にはまだ、宗門人別制度の施行命令は幕府から出されていません。また、お静の方は日蓮宗に帰依していたとされていますが、このお寺は尼寺ではありません。 また、保科正之公が伊那高遠を離れて、山形最上へ転封になられたのはその翌年ですが、『会津藩家世実紀』の記録によれば、お静の方のご容体が悪くなった時に、保科正之公は幕府の許可を得て、江戸から高遠へ帰っています。これも、あの時代の習慣から考えると不思議なことです。こうした時には、大名が帰るのではなく、重臣が替わりに帰って、葬儀などの段取りをするのが一般的だとされています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.08 16:19:11
コメント(0) | コメントを書く |