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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内の転切支丹本人同前の僧侶】 前述の丹瑞という僧侶の卵形墓石がある墓地にあった、とある一軒のお宅の墓域です。中央に典型的な十字墓がありました。丹瑞は、処刑された時には既に、伊那谷でも有数の巨刹と言われている伊那市中心部に近いところにあるお寺の住持でした。ただ、父親が処刑された時に、このお寺の住持が丹瑞を引き取って育てたとされています。これらのことは、内藤家が高遠藩主だった時代のことです。 伊那谷に関する史料にそれが書かれているようですが、その史料の元文を読んだことがないので、どこまで信憑性があるかは判りませんが、しかし、この一帯の村々にもキリシタンの痕跡が残っていることは、何回かこの一帯を訪ねて探し当てています。 しばらく前に放映された『知恵泉』というテレビ番組を録画したDVDをある先生から頂戴し、じっくり見てみたのですが、保科正之公はあそこで言われている以上に、非常に興味深い人物です。『会津藩家世実紀』の寛文三年のところに、「火葬並殺産子候儀、不宜旨御教諭被仰出」と言う題の記録が残っています。火葬は不孝だからしないようにということなのですが、これも気になって仕方がありません。 また、正保三年には「牛犬を殺候儀御停止被仰出」という題の記録が残っているのですが、牛を食べるために殺して、その肉を売買していることがあったようで、それを禁止するために牛の屠殺を禁止していますが、当時の日本人が牛を食べたかどうか、不思議でなりません。ただ、犬を食べる習慣は、近年になっても続いていたようです。犬を食べる話しを聞いたことがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.10 21:16:05
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