|
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内の「庚申石祠」】 これは旧高遠藩領内のとある村の道路脇の小高いところに並べられている石祠や石像・石仏列です。中央にある石祠を「庚申石祠」と説明板には記されていました。 「この庚申石祠は、高さ約一一三センチ、幅六二センチで、箱状に刳り抜かれた塔身の中に三尊仏が納められ、正面の窓から拝むことが出来る。窓の上部には二猿が陽刻され、左右にはそれぞれ「明暦戊戌四年」「九月二日」と刻まれている」とその説明板に記されていますが、小さな穴が一つしか空けられていないので、内部の写真は撮ることが出来ませんでした。因みに明暦四年は万治元年と同じで、1655年です。 この説明板は当該市町村の教育委員会が建てたものですが、「この地方に庚申信仰が定着したのは、江戸時代前期後半からで、初期は寺住僧や堂守僧の勧進によって、庚申講仲間が建てた庚申供養塔がほとんどである。」とも記されています。こうした説明文を読んで、この一帯を訪ねた目的の半分を達成することが出来ました。 「この地方に庚申信仰が定着したのは、江戸時代前期後半からで」と書かれているということは、この一帯にある「庚申」碑は江戸時代前期後半以降のものであることが明らかです。徳川家康が征夷大将軍に任じられたのは慶長八年(1603)ですが、宗門人別制度の施行命令が出されたのは、寛永十六年(1639)のことで、この時の将軍は徳川家光です。この年にはポルトガル船の来航禁止命令も出されていますが、徳川家康も徳川秀忠も既に亡くなっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.12 21:12:14
コメント(0) | コメントを書く |