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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の不思議な村名】 これはまた別の村の墓地で撮った写真ですが、どちらも別々にここでご紹介したことがあります。上の写真に写っている墓石は、郡山市の教育委員会が「切支丹墓碑」としている墓石に形が似ています。そして、下の写真は、同じ村の大山祇神社の上り口に建てられていた石塔で、「已待供養」と彫られています。「已待」を供養すると言うことなのであろうと思われますが、この「供養」とレクイエムの考え方が気になって仕方がありません。 「レクイエム」は音楽の世界では「鎮魂」と訳されていますが、小生が知っている範囲では、「供養」に「鎮魂」の意味があるかどうか判りません。「供養」は三宝(仏法僧)あるいは死者の霊に諸物を供えて回向することであるとされていますが、こうした石塔の「供養」は記念することをであろうと思われます。そして、「記念する」は時として「想起する」と訳すことも出来ます。 聖餐制定後の中に「私を記念して」という言葉がありますが、エレミアスという学者は、記念するのは、人間ではなく、神であるとしています。根拠は、七十人訳聖書で「エイス・アナムネーシン」という言葉が使われているケースでは、そのほとんどが「神が想い出す」ということだからだと述べています。(『イエスの聖餐の言葉』(日本基督教団出版局) そして、「私を記念して」という言葉は、御ミサの時には必ず読まれる聖書のヶ所にあります。「己が侍であったことを記念する」ということから、「巳待」「已待」「己侍」が使われたことは、会津に残っている伝承からすると間違いなさそうですし、こうした供養塔が建てられている村には、必ずキリシタンの痕跡が残っています。そして、この村の名前にも、小生が気になっている漢字が使われています。
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Last updated
2015.05.16 10:19:58
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