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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある村の観音堂】 これは現在は新潟県に編入されている一帯にある、とある村の観音堂を撮った写真です。下の写真は、観音堂の内部正面を撮ったものです。ここに祀られているのは「子安観音」像ですが、この「子安観音」像は何回もここでご紹介したことがあります。この写真は2003年4月16日に撮った写真ですが、最初にここを訪ねたのは2002年の秋でした。国土地理院の地形図を見ていて、どうしても気になることがあったので訪ねたのですが、この燭台や中に祀られている「子安観音」像を見て、気になっていたことが解決されました。 この一帯は戊辰戦争までは間違いなく会津藩領でした。しかし、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)には名前が出てきていません。つまり、蒲生家が断絶してから成立した可能性のある村です。蒲生家が断絶した時に、蒲生家の家臣で、会津を離れたことが史料上はっきりしている重臣はそれほど多くありません。そして、会津で帰農したのであろうと思われる家々が会津に残っています。 それだけではありません。ここで何回も記してきましたが、加藤家の家臣が帰農していることも、残されている伝承から間違いないと思われます。もうかなり以前のことですが、喜多方市塩川町にある弾正ヶ原で本を読んでいたら、一人の方が声を掛けて下さって、色々なことを教えて下さいました。 そして、これまでにいろいろな方々からお伺いしてきたことを考えると、蒲生家の家臣の中には、加藤家に仕えてた家々があったと考えられますし、そうした家々の中に、保科松平家に仕えていた家々もあったと考えられます。ただ残念なことは、残されているモノからそれが判りますし、会津一帯に残っているコトバによってもそれをはっきりと示しています。ある方と電話でお話しした時、亡母の実家の伯母と話しているように感じました。もうかなり以前のことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.18 17:11:38
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