|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津藩の家老・太田小太夫実次】 「‥‥‥寛永二十年(一六四三)保科正之公の会津入城に従って来られた家老の太田小太夫実次という人、敬虔なキリシタン信者であったが、幕府のキリシタン禁制を憚った公が、彼を〇〇又右エ門と改姓させて、城北荒久田の地に六町四方を与えて帰農させた。その時青芋を栽培していた。しかし更に幕府の探索厳しくなったので、耶麻郡〇〇〇〇を経て〇〇〇に移住させたとあります。‥‥‥」 現在の会津若松市上荒久田にある天子神社の境内に建てられている案内板にこう記されています。(地名は〇〇で記しました)この神社は、乗用車であれば、何台か止めることが出来る駐車場がありいますので、会津へお出かけの際は、是非、お立ち寄り下さい。そして、この案内板に記されている全文をじっくりお読み下さい。 『新編会津風土記』にはこの経緯が記されていますが、写真に写っている「子安観音」石像はこの〇〇又右エ門が奉納したものだという伝承が残っていると、山内強『会津のキリシタン』に記されています。関心のある方は、会津若松市役所の近くに稽古堂という建物があって、その中に会津若松市立図書館があります。おそらく、蔵書があるだろうと思います。そして、この「子安観音」石像がある村のことも記されています。 典型的な切支丹武士帰農政策ですが、こうしたケースは他にもありますが、史料にそれが載っていないので、小生は取り上げないことにしています。伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た武士の中には、かなりの数のキリシタンがいたのであろうことは、旧高遠藩領内を巡ってみるとお判り頂けるだろうと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.21 17:37:36
コメント(0) | コメントを書く |