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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【鶴ヶ城の本丸御殿の庭に建てられていた「御三階」】 これまでにも何回かご紹介したことのある三層の建物です。ただし、外見上は三層ですが、二層と三層の間に小さな部屋があるそうです。そしてこの「御三階」が建てられたのは蒲生氏郷が鶴ヶ城の本丸を築いたときでした。また、玄関の破風に会津葵紋がありますが、この玄関の部分は本丸御殿の玄関の部分を移設したものだそうです。 しばらく前までは本丸御殿に、この「御三階」が建てられていた礎石が残っていましたが、調査のために解体されたあと、そのままになってしまいました。本当に残念なことです。あの石積みは会津鶴ヶ城全体の石垣と比べても、積み方が異なっていました。そして、鶴ヶ城の本丸を再建するために、本丸御殿があったところに競輪場が造られて、その時に一旦、移設されたのですが、競輪場が別のところに移された時に「正確に元に戻す」ことを中央省庁から通達が出されていましたから、残っていた礎石はほぼ間違いなく、以前と同じように積み直されたのであろうと思われます。 ここで写真をご紹介したことがありますが、会津の石積みには「すだれ」という「化粧」が施されていました。石積みの見えている部分に縦の筋を彫ったものですが、石垣の専門書を読むと、江戸時代の半ば以降に行われたことであろうとされています。そして、少し前までは残っていたのですから、戊辰戦争の時にも残っていたことは間違いありません。 あの石積みは非常に興味深かったです。調査で発掘したときに、早朝に出掛けてかなり多くの写真を撮ってきました。鶴ヶ城の天守閣は「野面積み」ですが、蒲生氏郷の時に築かれたのはあの天守台だけであったと考えられます。現在も、外堀の石垣を見ることが出来る部分があるのですが、あの外堀が築かれたのは、加藤明成が会津藩主だった時代です。そして、中通りから連れてこられた石工だともされていますが、白河の小峰城の石垣を見に行ったことがありますが、あの一帯に石垣石工があの頃にはまだいたのであろうと思われます。皆さんは、蒲生氏郷の時代に建てられたこの「御三階」、行ったい何だったと思われますでしょうか。「御三階」という名称は、明治期以降に付けられた名称であろうと小生は考えています。『新編会津風土記』にも『会津鑑』にも、「御三階」という言葉は出てきていません。 ※この御三階は、明治初期に七日町にある阿弥陀寺に払い下げられて、本堂として使われていました。
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Last updated
2015.05.22 17:38:23
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