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カテゴリ:キリシタン
【土津様(保科正之公)の墳墓】 この保科正之公の墳墓があって、土津神社が建てられている猪苗代町では、土津神社を「土津様」と呼んでいます。会津に住みはじめた頃は、こうお呼びすることの理由が見えませんでしたが、キリシタンの研究のために『会津藩家世実紀』を読み進んでいく中で、その理由が見えてきましたが、しかし、その理由に関する伝承は聞こえてきませんでした。 しかし、服部安休の墓のところに建てられている不思議な墓石のことを知り、そして、保科正之公がお亡くなりになられた頃には、神道はまだ葬儀を執り行っていなかったことを、ある研究者からお伺いして、それなりの仮説を立てていましたが、一昨年の暮れに、ある方がその伝承のことをお話しして下さいました。 保科正之公の実父は、徳川秀忠です。そして聖母はお静の方なのですが、お静の方の実家がキリシタンであったことは、『会津藩家世実紀』の元禄二年閏正月十五日の記録にはっきりと見えています。このお静の方の実家は、元は北条家の家臣だったとされていて、現在の板橋区小竹向原に屋敷を構えていた竹村家に寄宿していたとされていますが、お静の方の実家とこの竹村家は、保科正之公が保科家に養子に入る時に保科家に仕官していたと言われています。そして、『会津藩家世実紀』の同じ記録から竹村家もキリシタンであったことが読み取れます。 当時のローマ・カトリック教会の習慣からすれば、保科正之公(当時は「幸松」)に洗礼が授けられていたことは疑う余地は残されていないと考えられます。そして、幸松を保科家の養子にすることを考えたのは、穴山梅雪の妻であった見性院ですが、穴山家の墓地にも十字墓や宝篋印塔が建てられています。そして、徳川秀忠と妻のお江に関係する人物を考えていく過程で、お江のすぐ上の姉・初は京極高次の妻でキリシタンでした。京極高次は京極長政と京極マリアの子です。そして、京極高次の死後、初は江戸に住んでいて、時々、西の丸を訪ねていたとされています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.06.06 22:01:03
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