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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【米川にある後藤寿庵の墓】 会津では、後藤寿庵は蒲生氏郷の母親の実家の後藤千世寿であると考えられています。幕府の禁教令が押し進められてきたので、山形最上から伊達領に逃げたとされています。これはかなり信憑性が高いと小生は考えています。理由は『天正十九年蒲生家家臣帳』(1591)には、他に2名の後藤姓の人物の名前が記されています。女性が嫁いでくる時に、実家の家臣が帯同してくることは、室町時代には珍しいことではありません。 お静の方が、幸松(保科正之公)を連れて、江戸から伊那高遠へ来る時に、お静の方の実家の武士が伊那高遠に入っていたことは、『会津藩家世実紀』に記されているその実家の人物に関する記録から明らかです。ですから、『天正十九年蒲生家家臣帳』にある後藤姓の2名の人物は、蒲生氏郷の母親に帯同してきた後藤姓の家臣であったのであろうと考えられます。 そして、蒲生氏郷は肥前名護屋にいた時に、五島列島を複数回、船で訪ねているとされていますが、会津には五島姓の家も残っています。会津藩領内の村の墓地でそれを確認したことがあります。あの時も非常に驚きました。蒲生氏郷が会津に移封された時には既に、五島姓の家が蒲生氏郷に仕えていたことになります。そして、そうした家臣には、それぞれに家臣団がいたと考えられますから、あの一帯には五島列島から会津に入って来ていたキリシタンの武士集団がいたのであろうと考えられますし、それを示すモノもその村の墓地には残っていました。 ただ、後藤寿庵が亡くなったところは、もっと北の方だと言われていますが、それを確かめるためには発掘するしかないのですが、日本では何故か発掘が行われません。文字で書かれた資料を証明できるのは、証拠となるモノがなければなりませんが、考古学と歴史学の間に隔ての中垣があるのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.06.19 20:28:22
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