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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある村の「巳待供養塔」石塔】 前回の「鹿嶋神社」がある村のお寺の境内にある植え込みの蔭に、この石塔が残っていました。見付けたのは2005年10月15日のことでした。この村に関する様々なことを考え、『新編会津風土記』や『会津藩家世実紀』に残されている記録からすると、この村に「巳待」が必ずあるはずだと思っていたので、この時はかなり感動しました。 武士が農民になったり、山民になったりすることを「帰農」と呼ばれていますが、会津にはそうした家々がある村がかなり数多く残っています。それでいて、『新編会津風土記』にはその帰農に関する記述はまったくありません。それだけではありません。会津のとある川沿いの村々は、その多くが伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々であろうと考えられますが、先日、テレビであることを放映していたので、やはりそういうことかと納得することが出来ました。 あの一帯は、伊那高遠に比べるとかなり雪が多いところです。以前は、積雪期には平屋の建物は、屋根まですっぽりと雪に埋まっていたそうです。簡素な平屋だと、大雪になると棟を掘り出してそこに立ったら、目の高さまで雪があったこともありました。 しかし、そう考えると、その一帯に残っているモノやコトを理解することが出来ます。何しろ、その一帯には、18世紀まで「太子守宗」が残っていました。このことは史料に残っていますし、そうした「太子守宗」のお寺が真宗高田派に転宗したことを示す文書が、伊勢一身田にある真宗高田派の本山、専修寺に残っていると、その一帯にある市町村の調査報告書に記されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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