|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の寛政五年の「子安観音」石仏】 これは今までにもご紹介したことのある「子安観音」石仏ですが、戦後、圃場整備の時に田圃の畦から掘り出されたものだと伝えられています。一体何故、田圃の畦に埋まっていたのか不思議でならなかったのですが、同じように田圃の畦に観音菩薩石仏などが並べられていた村が、旧高遠藩領内にありました。そして、それらの石仏は圃場整備の時に村の中にあるお寺の境内に運ばれていました。 ただ、この写真の「子安観音」石仏で気になるのは、「寛政五年」と彫られていることです。この石仏の右側には女性の戒名が彫られていますから、「寛政五年」はその女性が亡くなられた年であろうと考えられます。しかし、寛政五年は1793年です。ですから、江戸時代後期までキリシタンが隠れていたことが判ります。「子安観音」は仏像ではありません。観音菩薩はあくまでも菩薩ですから、子供を産むことも、授乳させることもありません。 こうした「子安観音」石仏も、会津のキリシタンの典型的なモノの一つだと言うことが出来ますが、会津には不思議なところに「子安観音」が祀られているところがあります。また、猪苗代湖の南部にも「子安観音」が祀られているところが何ヶ所もありますし、不思議な像が残されているところもあります。 そして、戊辰戦争の時にどの様なことが起こったかを考えると、会津藩士の中にも隠れていたキリシタンがいたことがはっきりしています。そして、保科正之公がお亡くなりになられた時にはまだ、神道は葬儀をしていません。そして、『会津藩家世実紀』に残っている記録から、保科正之公の生母・お静の方がキリシタンであった可能性は非常に高いと考えられます。こう考えると、会津にかなりの数の「子安観音」像が残っていることも不思議ではなくなります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.07.28 18:11:43
コメント(0) | コメントを書く |