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カテゴリ:キリシタン
【会津の山村に建てられている案内板と墓地の百合の花】 この立て札が立てられていると、ある方から連絡があったので、驚いて、翌日ここを訪ねました。とある村の墓地の入口に建てられています。この立て札には「(伝説)」と書かれていますが、この立て札を建てられた方に偶然お会いすることが出来、お話をお伺いすることが出来たのですが、そのお話からすると、伝説ではなく、ある記録を読んだ方がお話しになったことから、ご自分たちの村がキリシタンであったことを知ることが出来たとのことです。 ここはかなり山の中の道路脇なのですが、この道路は何回も通ったことがあったのですが、その時にはこの立て札は立てられていませんでした。そして、この写真を撮ったのは2009年7月30日ですから、建てられてすぐに写真を撮ったということになります。この村のことに関しては、当該『市町村誌』をじっくり読んでいたので、かなり色々なことを知っていましたが、この立て札に出会い、建てた方からお話をお伺いすることで、またキリシタンに関する確実なことを知ることが出来ました。 会津には、帰農した武家が開墾に入った村がいくつもあります。そして、そうした村々には、それに関する伝承が途絶えてしまったところと、残っているところがあります。山村であろうと、会津盆地の平坦な部分であろうと、同じような村を見付けることは難しくありません。『文禄三年蒲生家高目録』『寛文風土記』『会津鑑』『新編会津風土記』を一体化したデータベースを解析していくと、それがはっきりと見えてきます。 今日も東京は猛暑日でした。一日中、頭の中がモワッとしていました。それでも、ここで様々な会津のキリシタンに関するデータを見ていて、蒲生家の家臣団や加藤家の家臣団、そして保科正之公と共に伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々が帰農していることを確認することが出来ました。この墓地に咲いている百合の花ですが、ユリが十字架のシンボルであることを知っている人々が、球根を植えたのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.03 20:46:39
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