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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【上総のキリシタン】 これは2009年2月2日に上総のとあるお寺の境内にあった「子安地蔵」石像です。抱かれている子供の衿の部分が非常に気になります。こうした衿のある着衣を着た子供の絵が、会津のとあるお寺にある観音堂に掲げられていました。そして、そのお寺も曹洞宗のお寺です。ただ、会津に住みはじめた頃に、その観音堂もキリシタンと関係があるということを耳にしたことがありました。 また、房総半島の南端から太平洋岸を北上する一帯には、江戸幕府が禁止した日蓮宗不受不施派のお寺が隠れていたとされています。勿論、現在はそうした日蓮宗不受不施派のお寺の活動は自由になっています。高校の日本史の授業では、ほとんど宗教に関することは説明されないのですが、江戸幕府は仏教を弾圧しています。「紫衣事件」などはその典型であろうと思われます。大徳寺や妙心寺の僧が皇室から賜った紫衣を幕命違反として妙心寺の単伝と東源、大徳寺の沢庵・王室という僧を罰した事案です。 「紫衣」は皇室が高層に与える最高位の僧服なのですが、幕府の許可なしにそれを受け取ることを幕府は禁じていたからです。これは寛永四年に起こったことですが、、寛永八年には、幕府は「新寺建立禁止令」を出しています。会津でも、『会津藩家世実紀』にこの「新寺」であるが故に破却されているお寺のことが記されています。これ以外にも、僧侶が妻帯していると判断された場合にも、僧侶が処罰されている記録が『会津藩家世実紀』に残っています。そして、寛永十年に幕府から出された長崎奉行に対する『下知状』に「伴天連入国禁止」が記されていました。この「伴天連入国禁止」は寛永十三年に出された下知状まで、続いています。 こうした幕府の対仏教政策と対キリシタン政策を時系列で考えていくと、キリシタンを禁止して以来、仏教をも弾圧していたと言わざるを得ません。そして、島原の乱の後、寛永十五年に日本人全員に「寺請証文」を持つことを義務化しています。学者の中には、この「寺請証文」の義務化をもって、キリシタンの全面禁止だとしている方もいらっしゃいます。そして、寛永十六年の『下知状』には、ポルトガル船の来航禁止が加えられましたが、この時にはまだ、保科正之公は高遠藩主でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.21 10:03:53
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