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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科正之公の生母、お静の方】 2009年5月18日に、伊那高遠にある樹林寺を訪ねました。そして、山門を入ってすぐのところに、お静の方の供養塔がありました。戒名が「法紹日恵大姉」なっていて、その下に「淑霊」と彫られていました。お静の方の実家が転切支丹類族になっていたのですから、当然のことであろうと思われます。また、ウィキペディアには「静自身は日蓮宗を信仰していたため、正之の手で身延山久遠寺(山梨県身延町)にさらに改葬される。」と記されていますが、これは『会津藩家世実紀』にその記録があります。 ですから、保科正之公が洗礼をお受けになっていらっしゃったとしても、何の不思議もありません。キリシタンにとっては幼児洗礼は当然のことでした。それで、伝承が残っていないかと期待し続けていたのですが、一昨年、ある方から「保科正之公はキリシタンだったんです。私たちはそう教えられてきました」と教えていただきました。信頼できるかたです。 そして、保科正之公がお亡くなりになられたのは寛文十二年のことですが、この時にはまだ神道は葬儀を行っていないと、神道の研究をされている先生から教えていただきました。会津藩の家臣には「寺請」ではなく、「神道請」の家臣が多かったのですが、会津若松城下のお寺にある墓地に、神道の神霊名が彫られた墓石は非常に数が少ないです。そして、保科正之公がお亡くなりになられてから17年後の元禄二年には、武川源助・内藤勝左衛門以下、28名が「切支丹宗門類族之者従公儀御赦免」なっているのですが、この中にお静の方の実家の武士が含まれています。 ここで様々なキリシタンのモノをご紹介してきましたが、保科正之公が会津藩主になられて以降、キリシタンが処刑された記録は、『会津藩家世実紀』には一ヶ所しかありませんし、その記録が非常に不思議だったので気になっていたのですが、『新編会津風土記』にとある文書のことが記されてい流のを見付けて、その処刑の不思議さが消えました。彼らは間違いなくキリシタンであったと考えられますが、処刑されたのではなく、移住させられたのであろうと考えられます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.21 10:52:22
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