|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【江戸市中のお寺にあった不思議な墓石と織部灯籠】 前回ご紹介したのと同じお寺の境内にあった墓石と本堂の入口近くにあった織部灯籠です。この織部灯籠にも、竿の部分にキャソクを着た人物が彫られています。そして、この墓石の上部には「○」の中に卍が彫られています。司東真雄師の著書によれば、こうしたのが彫られている墓石も転切支丹類族の墓石であるとされています。 卍は地図記号では寺院を示していますが、ローマ帝国の時代には十字架のシンボルとして卍が用いられていましたし、ローマのカタコンベの壁に卍が彫られていると聞いたことがあります。そして、彫られている部分を文字が彫られている部分と比べると、別の人物が彫ったようにも見えます。これは、この墓石だけに言えることではなく、同じような墓石に会津で出会ったことがあります。 東京には、高遠石工が移住した一帯があるのですが、彼らは江戸城の石垣構築のために、その移住したところと江戸城を往復していたとされていますが、あの一帯を巡って見た限りでは、現在の八高線沿線や青梅線沿線、あるいは八王子周辺で墓石や石仏を彫っていたのではないかと考えられます。因みに、高遠城趾で石垣が築かれているところはごく一部ですし、江戸城の石垣が組まれ始めたのは、慶長十二年(1606)のことです。 そして、旧高遠藩領内にはかなりの数の不思議な石仏が残っています。それらの石仏に関してはここで何回もご紹介したことがありますが、禅宗のお寺に観音菩薩石仏や三十三観音石仏が並べられていたりします。そして、そうしたお寺の中には、三十三観音石仏が並べられているすぐ近くに、保科正之公と共に山形最上経由で会津に移住してきた家老の母親の十字墓があります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.22 14:31:34
コメント(0) | コメントを書く |