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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【殉教者と転切支丹、そして転切支丹類族 その2】 これは宮城県北部のとあるところにある殉教者の墓です。この一帯には近年になってローマ・カトリック教会が建てられていますが、そこにもキリシタンの遺品が集められていました。それらの一部はここでご紹介しましたが、亥までも鮮明に記憶が残っているのは、この一帯の地元の方からお伺いしたお話の内容でした。そのお話をお伺いして、明治「維新」は決して近代市民革命ではなかったことを強く思わされました。 転切支丹類族は「罪人」であると今でも強く考えていらっしゃる方がいて、そうした方から言われたことに深く傷ついている方がいらっしゃったことを耳にしたからです。何回もここで記してきましたが、仏教寺院が一般民衆と関わりを持つようになったのは、17世紀前半に宗門人別制度が施行されてからです。それまでは、仏教の多くはお寺の中で完結していました。そもそも、大陸から伝わった仏教は、お寺の中で完結していて、「来る者拒まず、去る者追わず」が原則でした。 そして、幕府が考え出した宗門人別制度は、その内実はキリスト教会の組織的仕組みと同じでした。婚姻や養子縁組で家を移る時に寺院が行わなければならなかった手続きは、キリスト教会が古くから継承してきた教会制度とまったく同じですし、それが明治になって市町村が行うようになった戸籍制度として現在も残っています。但し、中学や高校の歴史教科書にそうしたことが記されていないので、多くの方々はご存じなかっただろうと思います。 そうした日本の宗教の情況が明治になっても消えていませんでした。ですから、「明治十五年」と彫られている墓石が会津に残っていても不思議ではないわけです。そして、多くの村々では、キリシタンに関する伝承は深く潜ってしまいましたが、時として、それをお伺いすることが出来たこともあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.09.06 10:05:17
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