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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【関東平野の不思議なお寺の三十三観音石仏】 前述までのお寺の裏山に並べられている三十三観音石仏の一番から三番までです。尾根沿いに登っていく路の脇に並べられていて、登りと降りでは路が異なっています。一番の石仏に彫られているように、西国三十三観音を模して彫られたものが並べられているようですが、あの西国三十三観音も非常に気にならざるを得ません。曹洞宗のお寺に観音堂が建てられていたりします。 既に、江戸時代にはこうした不思議なことが行われていたようです。これは秩父三十三観音にも言えることです。そして、会津三十三観音でも、南山御蔵入三十三観音でも同じケースがありますし、曹洞宗だけでなく浄土宗のお寺に観音堂が建てられているケースもあります。しかし、『新編会津風土記』の編纂者はこうした実に不思議なことにはまったく沈黙しています。『新編会津風土記』の凡例からすると、寛文期の寺社改めの時にお寺から提出された文書に記されていなかったのかもしれません。 そもそも江戸時代には、仏教の各宗旨間には繋がりがほとんどありませんでした。これは幕府の意向であったと考えられます。幕府は、お寺が武装することに非常に神経をとがらせていました。ですから、寺社奉行は自由にお寺に介入することが出来ました。会津藩でもかなり厳密にお寺を監視していたようで、廃寺になったお寺や追放刑になった僧侶の記録が『会津藩家世実紀』に出てきます。 にもかかわらず、『会津藩家世実紀』にあるキリシタンに関する記録は、ごく僅かです。そして、転切支丹は城下へ移住して商売を始めることが許されていましたし、移住開墾政策が行われましたが、経済的な面では会津藩がかなり援助していたようです。これに関する記録も、『会津藩家世実紀』に見られます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.10.03 13:56:56
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