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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科郷にあった「子安地蔵」と宝篋印塔群】 2009年5月17日に保科郷を訪ねた時に撮った写真です。大きな六地蔵が祀られていましたが、そのうちの一体は幼児を抱いたものでした。そして、とあるお寺の墓地には宝篋印塔が何基も残っていました。最初に保科郷を訪ねたのは、2003年でしたが、その時はゆっくり巡ることが出来たなかったので、木島平を訪ねたあと、保科郷を再訪したのですが、保科郷にもキリシタンが広がっていたことを確認することが出来ました。 保科家が伊那谷に最初に移動した理由ははっきりしていません。しかし、保科一族がキリシタンになっていたことは、伊那谷にはっきりとした証拠が残っています。ですから穴山梅雪の妻・見性院が何故保科正之公(当時は幸松)を保科家に養子に出すことを提案したのかが気になっていたのですが、2009年に保科郷を再訪して理解することが出来ました。 そして何よりも、保科正之公の生母・お静の方の実家がキリシタンであったことは、『会津藩家世実紀』に残っている文書から明らかになっています。そして、お静の方は日蓮宗に帰依していたとされていますが、お静の方が幸松と共に伊那高遠へ移住した時にはまだ、宗門人別制度は施行されていません。そして、実に不思議なことなのですが、お静の方は幸松を生んだ後も、秀忠の側室になっていませんし、将軍秀忠には側室が一人もいませんでした。 そして、幸松は保科正光の養子になったのですが、保科正光の妻は真田幸村の姉妹でした。しかし、真田一族にキリシタンがいたことは、蒲生氏郷の重臣に真田隠岐守と記されている人物がいたことが、天正十九年蒲生家家臣帳に残っています。この真田家の城があった上田市真田町は保科郷の真ん中を上がっていく道を上っていくと、菅平に出て、そこから少し下ると戸石城があった一帯に出ることが出来ます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.11.01 10:22:45
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