会津の不思議な石仏
【会津の不思議な石仏】 「石仏」と題しましたが、どう見ても仏像とは思えません。この「石仏」に最初に出会ったのは1998年でした。とある村に建てられている神社の境内でした。そして、その神社のすぐ近くに聖徳太子堂が建てられていて、中には聖徳太子像が祀られています。しかし、墓地に建てられている墓石には、間違いなく戒名が彫られています。 お気付きになられているかと思いますが、この「石仏」の舟形光背には、太陽と月が彫られています。そして、この「石仏」の足元には、銀色の硬貨が捧げられています。また、この村を通っている道の手前の村と奥の二つの村には、「子安観音」石仏が残っています。 そして、それらの村々は『寛文風土記』や『新編会津風土記』にはその村名が記されているのですが、『文禄三年蒲生家高目録』には名前が記されていません。そして、この一帯にある村々の『会津鑑』にある石高を考えると、実に不思議なことが見えてきます。それで、データベースを解析していったら、実に不思議なことが見えてきたのですが、伊那谷や旧高遠藩領内を巡り続けてきて、その不思議さが消えました。 『寛文風土記』が編纂される直前に成立した村々であろうと思われます。このことは、拙著『会津キリシタン研究II』に詳しく記してあります。そして、この一帯にある3体の「子安観音」石仏の意味もはっきりしました。それだけではありません。あの道は江戸時代には「キリシタン街道」だったのであろうと考えられるようになりました。キリシタンの宣教師が巡回した街道です。