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11日から13日まで2泊3日で南九州霧島・指宿温泉・知覧・桜島・長崎鼻の旅に爺やをお供に行ってきました。
初日は雨模様でちょっぴり残念でした。 伊丹からANAの飛行機でAM.11:00に鹿児島空港に着く。 スコールのような雨が急に降り出したりしてびっくり。 霧島神宮にお参りする頃には上がってきたが、明日はどうなるかと言う空模様。 龍馬とおりょうも新婚旅行に来たと言う霧島温泉。 寺田屋事件で刀傷を負った竜馬をあの篤姫様の幼馴染の直五郎さんこと小松帯刀が霧島温泉に湯治に招いたのだとか。 病弱だった小松帯刀もよく湯治に来ていたらしい霧島温泉は乳濁色の高原の温泉で、とてもいい湯だった。 オジさんも「今まで入った中でもかなりいい湯だね。」と珍しく翌朝も入っていた。 私は宿について直ぐ1回、寝る前に1回、翌朝1回といつものように3回お風呂を楽しんだ。 2日目 福山の『黒酢』のかめ壺畑を見学。3年物と5年物の味ききをした。 素人の私でもはっきりまろやかさが違う その後、桜島溶岩なぎさ公園の日本最大級の100メートルの長~~~~い足湯に入りながら、錦江湾と桜島と鹿児島市内を眺める。 昨日の雨のため桜島の噴火がとても多い。 黒い煙が灰色にそして白っぽくなり大隈半島のほうに流れていく。 桜島フェリーで15分の錦江湾クルーズ。 屋久杉工房に寄り、九州最大のカルデラ湖で大うなぎで有名な池田湖へ。 菜の花畑と池田湖と開聞岳。シャッターチャンス。 長崎鼻から雄大な開聞岳を眺めて宿へ。 館内の指宿温泉名物の砂むし温泉に。 3日目 枕崎でカツオのお土産を買って、火之神公園・平和記念展望台から200km先の海底300mの戦艦大和の沈没地点を眺望し多くの御霊に合掌してきた。 戦艦大和は海の最初で最後の特攻。 多くの少年兵が乗船していたと言う。 一番若い少年兵は14歳だったと言う。 映画の「戦艦大和」や「ほたる」などで少しだけ知ってるつもりになっていた。 あの日、雲が山の上まで垂れ込めていずに快晴であったら、空からのアメリカ機の機影が見えて大和からの攻撃も出来たかも知れない。 雨が降っていたら、あの頃の飛行機なら飛んでこられず大和は沖縄に着いていたかもしれない。 いつも、どんなときもあの時こうだったらは何のプラスにもなりはしない。 分かってはいるが乗った戦艦や巡洋艦の違いが生死を分けたと言うこともあり、人の命の分かれ道が余りに紙一重のように思えてならなかった。 「戦艦大和」の沈没地点特定に3年かかって、200km先の300m海底に船首の菊のご紋が沈んでいると分かったとか。 これからと言う若者たちがお国のためにと言う言葉の元に死んでいったのだと思うとたまらなかった。 ただただ合掌するしかなかった。 万之瀬川沿いの凡字が彫られている断崖絶壁の清水磨崖仏を見学して知覧へ。 太平洋戦争末期に知覧から出撃して行った特攻隊の遺品を展示した『特攻平和会館』の見学。 皆無言で資料や展示物に見入る。 映像に泪が止まらなかった。 18歳19歳と言うまだ大人になっていない若者たちが、愛するものを守るためにお国のためにと飛び立っていったと言う。 その若者たちが、「俺たちが日本を守ったら、後に残った者達がきっと立派に日本をたて直してくれる。だから、俺たちは喜んで死んでいくんだ。」と言って飛立っていったという。 帰り道、無言だった涙目のオジさんが何を感じたと聞くから「死んでいった若者たちに恥ずかしくない日本人が今どれだけいるんだろう。死んでいった若者たちに申し訳ないと思った。」 と言うと、オジさんも全く同じことを思ったと言う。 二度と起こしてはならない間違い・戦争を忘れてはいけない。 そして、自分たちが死ぬことで日本を守り、後に残る者を信じて逝った若い命に恥じない日本・日本人でなければならないと思った。 若くして散って逝った若者の大切な命を二度も冒涜してはいけない カルカン工場で季節限定の菜の花カルカンを買って、最後に藩主島津家の別邸の仙厳園 (篤姫と小松帯刀が二人して桜島を眺めたお庭)から夢姫とオジさんも桜島を眺めてきました。 篤姫が最後の最後まで手放さずに持っていたと言うお軸もここからの錦江湾と桜島を描いた故郷の絵だったとか。 今回の旅行中にガイドさんと添乗員さんの二人が口をそろえて言った出会った珍しいもの。 1つは2時間に1本しかないJR枕崎線の1両だけの電車。 もう1つは、日豊本線の「隼人の風」号。 この両方の電車に出会ったツアーは珍しいようだ。 ゆっくり温泉につかり、美味しい物を頂いて2泊3日の南九州の旅は終りました。 感謝感謝 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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