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テーマ:大河ドラマ『平清盛』(470)
カテゴリ:テレビ番組
第六回目 熱田神宮で物盗りたちに矢を射ったあとでの源義朝(玉木宏)のセリフだが
「あれはやはり『民のもの』で正しいのではないでしょうか。自分もそう聞えました」という意見を頂いた。 詳しい次第については下の記事(2月16日)を見ていただくのが手っ取り早いと思う。 果たして義朝が物盗りどもに吐いたセリフが『神のもの』なのか『民のもの』なのかはむしろストーリーをよく考えれば明らかだろう。 もしここで義朝が物盗りに向けて「民のものにまで」と言うつもりで『民のものにまで』に聞えるような言葉を吐いたら、側に仕えていた従者に「若君、そこは神のものでは」とやんわりたしなめられていたはずだ。というかもし自分が従者だったら直接口にはしなくても心の中でそう思っただろうね。「義朝、それ違うから」みたいな感じで。[註] そもそも「物盗り(ものとり)」って何なんだということになる。当然立場の弱いものから力ずくで金や食い物(米)を奪うから「物盗り」だろう。つまり「民のもの」を強奪するから物盗りなので、ここで義朝がわざわざ「よりによって」の感情を込めて「民のものにまで」とか言うはずもないのではないだろうか。そうは思いませんか。「民のもの」を強奪するのは普通の物盗りだもの。 そうではなくて、義朝が怒りを増大させたのはその物盗りが強奪しようとしていたのが神社に運ぶ途中の奉納米だからだろう。だからここで義朝が「神のものにまで!」と物盗りたちへの怒りを露わらしたことが(視聴者も)納得できるのだ。 というわけで玉木義朝がここではっきりと「神のもの」と聞えるような言い回し(とイントネーション)で「神のものにまで」ととうセリフを口にしていたのが正しくて(民のものにしていた)字幕のほうが間違っていたという結論なんだが。 (字幕とおりの)民のものと受け取ったという人がいたとしてもそれはしかたないだろう。 それはその人のドラマの見方に問題があるのかもしれない。字幕というのはあくまでも補助するものであってドラマの主体ではないのだから。 もし玉木のセリフが「民のもの」に聞えたとしたら、それは自分の耳というか聴力であるとか日本語の聴き取り能力を疑ったほうがいい。(こういう人がいるのが問題なのかもしれない) 中には(掲示板にあった書き込みらしいのだが)字幕はオリジナルの脚本と連動しているのだから脚本上は「民のもの」だったのではないかという意見というか推測もあるらしい。 もしそうだとしたら(それこそただの妄想レベルだが)脚本を読んで「ここは民じゃなくて神でしょう」とばかりに現場で勝手に「神のもの」にしてしまった玉木宏は恐るべき俳優ということになるのでは。 まあどうでもいいことだけど念のために付け加えてみた。 結論。「神のもの」で正しいんだってここは。 [註] 何を言いたいかというと、つまり、義朝の従者としていつも画面に映っているのが鎌田正清(政清)ということになっているからだ。つまり「かまた」つながりね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012年02月22日 20時58分07秒
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