こうして何かが変わってゆく その一
3.11の大震災以降、自分や自分の周囲で、なかなか気がつきにくい、些細なことやいろいろなことが実は大きく変化していたりする。こころの問題としてだ。たとえば、これはつい最近のことだが、震災後長らく行動をともにしてきた仲間のひとりが背中(首のうしろ)と腕にタトゥー(刺青)を入れたことを知った。これがもし震災以前のことだったら、「何やってんだよ、いい年こいて…」と冷かしのひとつでも入れるところだろうが、彼とずっと行動をともにしていろいろなところでいろいろなものを見てきた自分は、すぐに「ああ、そうだよね…」と彼がタトゥーを入れた理由を理解することができた。皆怖いのである。やっぱり。もちろん、自分もだけれど。これも最近になってのことだが、長らく行方不明だった親戚のひとりの消息が判明した。しかも判明した時点ですでに「東京で火葬済み」という状態だった。それをはじめて聞いたときには、悲しみよりも先に、まるで絶壁から谷底を覘いたときのような恐怖を感じてしまったのだ。恥ずかしいことだけど。もちろん誰のせいでもない。誰が悪いというのでもない。万人単位の死者が出てしまう地震と津波、つまり震災とはこういうことなのだと受け止めるしかない。しかし、こういう悲劇であるとか、悲しい現実というものにいくつも遭遇してしまうと、せめて自分の肉体に一見して誰にでもすぐにわかる「アイデンティティ」というものを施しておくというのも、最悪の場合には小さな社会貢献になるのではないのか、みたいなことも考えてしまうのだ。まあ自分はタトゥーはダメだけど。代わりにといってはなんだけど、「軍隊みたいな『認識票』をつけようかな…」とか、いろいろとこころが傾いている。