説教要約 317
「アブラハムに学ぶ真の信仰」 甲斐慎一郎 創世記、12章1~9節 パウロは、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」と述べていますが(ガラテヤ3章9節)。私たちにとって最も大切な信仰について信仰の人アブラハムから学んでみましょう。 一、神の声や神のことばを聞いて信じることが信仰の第一段階です(使徒7章2~4節、創世記12章1~4節) 「アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れ」ました(使徒7章2節)。これはアブラハムに対する最初の召命です。しかしアブラハムは、ウルを出たものの父テラヘの情にほだされたのでしょうか、カランに住みついてしまい、父と死別しました(11章32節)。 この12章1~3節には、アブラハムに対する2回目の召命が記されています。アブラハムは、最初の召命には父への情に流されて、従い通せませんでしたが、2回目の召命には、信仰によって「主がお告げになったとおりに出かけた」のです(4節)。 ある人々は、「鰯の頭も信心から」という諺のように何を信じるかということよりも、堅く信じて疑わない心、すなわち信心が大切であると言います。しかし聖書は、信心よりも何を信じるかという信仰の対象が大切であると教えています。アブラハムは、ウルにおいてもカランにおいても神の召命の声を聞いて出かけたのです。 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)とあるように、神のことばを聞いて信じることが信仰の第一段階です。無念無想で、神のことばを聞こうとしなければ、真の信仰を持つことはできません。 二、神の声や神のことばを聞いて偶像を離れることが信仰の第二段階です(使徒7章3節、創世記12章1節) アブラハムは、ウルにおいてもカランにおいても、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け」(使徒7章3節、創世記12章1節)という神の声を聞きました。アブラハムは、この神のことばを信じて、偶像の町ウルを離れ、偶像を信じる親族を離れて出かけたのです。 アブラハムの故郷であるウルは、偶像の町です。ある人々は、金銭や名誉や快楽を偶像としています。パウロは、「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と記し(コロサイ3章5節)、イエスは、「あなたがたは、神にも仕え、また富(偶像の神マモン)にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6章24節)。 神のことばを信じて偶像を離れることが信仰の第二段階です。偶像から離れようとしなければ、真の信仰を持つことはできません。 三、神の声や神のことばを聞いて、無から有を生じる創造を信じることが信仰の第三段階です(創世記15章1~6節) アブラハムは、神の召命を受け、生まれ故郷を出て、長い間、カナンの地に住んでいました。その間、家畜と銀と金とに非常に富み、多くのしもべたちを所有するようになりましたが、まだ子どもがなく、足の踏み場となるだけの地も与えられず、すべての民族の祝福の基となっていませんでした(15章2節)。 神は、アブラハムを外に連れ出し、彼に無数の天の星を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と仰せられました。「彼は主を信じ……主はそれを彼の義と認められ」ました(15章5、6節)。アブラハムは、「無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じたのです(ローマ4章17節)。 人間は、材料に手を加える「作る(造る)こと」しかできませんが、神は、何の材料もなく無から有を生じる「創造すること」がおできになります(創世記1章)。現在は何もなくても、無から有を生じさせることができる神とその約束のことばを信じることが信仰の第三段階です。神のみがおできになる無から有を生じる「創造」を信じなければ、真の信仰を持つことはできないのです。