説教要約 339
「見えないものに目を留める(3)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 三、現代科学と聖書の教えとの相違点 猪木正文氏は、「宗教は感じるままの物質世界は実在しないから、真に実在するものは心であると考えます」(猪木正文著、「物理学的人生論」33頁、講談社現代新書、1978年)と述べていますが、この考えは「唯心論」と言い、ある新興宗教の教祖の思想であっても、聖書やキリスト教の教えではありません。宗教がすべて、このようにとらえているわけではありません。 「科学は感じるままの物質世界は実在しないが、その背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます。……では、真に実在する『ある物』とはいったいなんでしょうか。……『ある物』とはエネルギーのことです」(前掲書、33、153頁)。 現代科学は、究極的な実在は非人格的なエネルギーであり、そのエネルギーが生命の粒子を作り、生命の粒子は一つの分子で、DNA分子を作り、すべての生物が誕生したと教えています。 聖書とキリスト教の教えは、科学と同じように「感じるままの物質世界は実在しないが、その背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます」(前掲書、33頁)。聖書とキリスト教の教えは、この「あるもの」は、人格を備えた全知全能の神であり、その神がすべてのものを創造したと教えています。 「ヒトの遺伝情報を読んでいで、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました。…… 実際に遺伝子の世界は、ふれればふれるほどすごいと感じてしまいます。目に見えない小さな細胞。そのなかの核という部分に収められている遺伝子には、たった4つの化学の文字の組み合わせで表わされる30億もの膨大な情報が書かれている。その文字もAとT、CとGというふうに、きれいに対をなしている。この情報によって私たちは生かされているのです。 しかも人間だけではない。地球上に存在するあらゆる生き物――カビなどの微生物から植物、動物、人間まで合めると、少なく見積もっても200万種、多く見積もると2,000万種といわれている――これらすべてが同じ遺伝子暗号によって生かされている。こんなことがあってもいいものか――。しかし現実にあるのですから、否定のしようがありません。そうなると、どうしてサムシング・グレートのような存在を想定しないわにはいかなくなります」(村上和雄著「生命の暗号」198~200頁、サンマーク出版、1997年)。 聖書の教えによれば、「サムシング・グレート」は、全知全能の神であることは、言うまでもありません。 「科学は事実を記述するもので、宗教はこれを解釈するものです。この相違は根本的な重要性をもっています。言葉をかえて言えば、科学が『何か』との問いに基づくのに比べて、宗教は『なぜか』の問いに立つものなのです。すなわち科学は、観察や実験をとおして自然現象の経過を正確に描述することに関係し、一方宗教は、その本質的な価値や意義の究明にかかわりをもっています。 この意味を一層明瞭にするために一例をあげてみましょう。まず読者自身、『わたしはどのようにして存在するようになったか』と、自問自答してみて下さい。その一面の解答は、生物学的方面からその経過を記述し、受胎時の単細胞体から現在の複合体に至るまでの、有機体の発展をたどることから得られます。それはみな実際に起こった現象にかかわるものです。ところでわれわれは、『なぜか』の立場に立って、科学が描述しているこれの経過の背後にあるものは何か、またその意義と重要性とは、いったい何であるかを考えてみましょう。宗教は、『神があなたがたを創造されたのである』(詩篇139篇13~16節)と答えます。さて、以上の二つの記述は、どう見ても相反するものではありません。現象の経過を描述する科学と、その究極的起源や意義を説明する宗教とは、少しもくい違うものではありません」(G・ロビンソン、S・ウィンワード共著「解決」109、110頁、聖書図書刊行会、1960年)。