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カテゴリ:教育について
人と人の気持ちの通い合いは、無くても生きていけるのかもしれない。
便宜的に必要最小限の意思表示さえしていれば、買い物だって出来るし、困ることは無いのかも知れない。 し・か・し・! 最低限のコミュニケーションしか取らなければ、喜びどころか、悲しみさえも味わえないことになってしまうだろう。 確かに人と人との関係の中というのは、煩わしさを媒体として全てが成り立っているようなところもある。 その煩わしさが、ある種の緩衝材になっていて、付き合いの中の刺々しさを緩和していてくれるのも事実だ。 では、人はどうやってその煩わしさいっぱいのコミュニケーション能力を身につけていくのでしょうか? 学校の授業で例えば「こうすれば、友達と上手く付き合える」などと、具体的な学習はしていない。 物心付かないうちから、その年齢にあった環境で、それぞれが他の人を意識し、ケンカしたり仲直りしたりを繰り返し、少しずつステップアップしていくしかない。 つまり子供のころの遊びの中で、少しずつ養われていく能力なのだと思えるのです。折り合いをつける駆け引き能力のようなものだ。 子供は無限の可能性を持っているものだと思いがちだけれど、子供自身は実に現実的で自己の能力の限界をよく知っている。努力すれば壁を乗り越えられることだってちゃんと知っている。 ただ一番発育の遅い自立性の欠如により、より楽な方へと流れて行きやすいだけなのだ。(大人だって同じだけれど) ああだ、こうだと、勝手な想像で思いを巡らすことの向こう側にコミュニケーションがある。 要は、場数を踏まなければ、この曖昧模糊とした能力は上達しない。 じゃぁ、どうすればいいのだろう? 昔は良かったと言ってみたところで、どうにもならないことだ。 携帯やゲームやネットが無かった時代は、何かをするにも今よりももっと労力を必要としたわけで、それは、どういう事かというと、人と人が今より繋がりを密に保たなければ、行動できなかったということだ。そして加えて言うならば、それら不便さをを補うのは、人の想像力だったのではないだろうか。 世の中を変える何てことは、少人数ではどだい無理なことなのだけれど、とりあえず何かしなくてはと思うのだ。 各家庭で、少しずつ変化させていけば、全体も少しずつ変わるんでしょうが、これもなかなか難しいことなんでしょうね。 先ず我が家では、子供部屋にテレビやパソコンは置かない事に。 テレビやパソコンをしたければ、リビングでないと出来ないのです。 そうやって、自分の部屋に意味もなくこもることのないようにとの思いです。 今ではHDRやDVD等々、裏番組を録ったり出来る時代なので、チャンネル争いも昔ほど壮絶ではなくなってますからね。 同じ空間を共有することでも、少しは変わるのではないかと、ささやかな抵抗のひとつです。 そして、堅く心に決めているのは、子供が小さいうちはTVゲームは与えないと云うことだ。子供は子供と遊ぶことでイロイロと学ぶはずなので、その時期にわざわざ1人で遊ぶ事はないと思う。 自分で考えたり、勝手な理由付けをして遊んだりして欲しい。 安全の為といって、幼いうちから携帯を与えるのもしない。 便利なものが、身につけなければならない事を阻害する方が心配だから。それもひとつの心配の種になる。 大人ですら上手にコミュニケーションを取れる人は少ないと云うことは、子供のうちからよっぽど場数を踏まなければ、身に付かないだろうね、コミュニケーション能力って。 今の子供達は大変だ。 がんばれ~、こどもたち! 強くならないと!いじめなんかなくならないぜ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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