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ダヴィンチ・コード (2)
いつものモモンガさんのブログのコピペに、私のコメントをはさむ ―――― ◇ ―――― 映画「ダヴィンチ・コード 」、見ました。 初日だったので(先週、「間宮兄弟」が2時間までも満席だったので・・)、 2時間ほど前に映画館に行きましたが、 近くの映画館は比較的空いてました。 原作を読んでいなかったので、 期せずしてキリスト教の歴史のお勉強?になりました。 ダ・ヴィンチの絵画に秘められたコードの解釈・・ を見ながら、ああ、そういう見方もあるのか、と引き込まれていきました。 個人的に一番興味深かったのは、 4世紀に開かれた「ニケア会議」の話。 キリストが、神か人間かが議論され、三位一体論が確立された。 ・・・こういうことを議論して決めるのが、西欧人の思考なんだな、 と妙に納得。 疑問に思ったこと2つ。 一つは、「マグダラのマリア」が誰だったのか、の解釈は、 この映画最大のなぞで、とっても面白いところなのだと思いつつ、 キリスト教からすると「異端」なのでは? と思ってしまいました。 ーーーーー ○ alex99 確か、マグダラのマリアの福音書というものがある 完全な異端 また、 秘密結社である「シオン修道会」の歴代の総長が、 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ニュートン、ドビュッシー、ジャン・コクトー ・・という錚々たるメンバーであるのも、謎のままでした。 ーーーー ○ alex99 へ~え! これは、知らなかった と言うか、信じられない シオン修道会を調べて見よう お気に入りのシーンとしては・・ 、 プライベート・バンクが出てきましたが、 テンプル騎士団が、西欧全土の王侯貴族を相手にした預金・融資・為替業務を行い 最古の銀行システムを作り上げていたという説をきいたことがあったので、 なんか嬉しくなりました。 ーーーー ○ alex99 テンプル騎士団は、フランス王に貸し付けたために、返済できなかった国王に滅ぼされた ウィキペディアの下記の記述を読んでください ひどい話しです 騎士団の歴史については、また ---- 騎士団の壊滅 テンプル騎士団の破滅は突如として訪れた。13世紀の終わり、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ4世(美男王)は財政面で幾度も騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった2つの騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服。その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を及ぼす、という夢であった。 しかし、現実にはフランスは慢性的な財政難にあえいでいた。フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。 上記の説とは別に、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したともいわれる。 いずれの動機であれ、まず手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したが、これは即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しい。そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うには教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男色(ソドミー)行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。 火刑に処される騎士団員 1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された。 さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった[3]。たとえばポルトガルでは国王が逮捕を拒否し、「キリスト騎士団」という名前での存続が認められた。カスティーリャとアラゴンでもテンプル騎士団に対する弾圧は一切行われなかった。ドイツとキプロス島では、裁判までは行われたが証拠不十分で無罪の判決が下された。また、教皇庁と対立していたロバート1世の治めるスコットランドはそもそも教皇の決定など意に介していなかったので、同地でも騎士団は弾圧を免れた。 資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。 ---- ○ alex99 今回の欧州旅行で、シテ島にも行ったが、こう言う歴史もあったのだ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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