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【復刻過去ログ】 「カーヒュー」curfewという言葉がある。a wartime curfew 戦時下夜間禁止令 とか military curfew 軍事的夜間禁止令 と表現した方が適当かと思う このところ、ベトナムの歴史やベトナム戦争を解説した You Tube をポストしたし、Chika VietVlog ベトナム探検隊 を紹介したりしたので、ベトナム関連と言う事で、私の昔のベトナム戦争体験談の一環として 過去ログを復刻してみた オリジナルの記事は 2004.05.12 ―――― 【過去ログ】 ―――― 「カーヒュー」という言葉がある。 curfew フランス語 ネットで調べてみよう。 外出禁止令(時間帯)、門限、日暮れの鐘 戦争などの緊急事態に出される夜間外出禁止令や未成年の深夜外出禁止法令、あるいはその時間帯 また、その時間を告げる鐘やチャイムの音、夕暮れに鳴る鐘の音の意味 語源はフランス語の covrefeu、つまり cover fire の意味で、暖炉などの火を消えないように灰を被せる、いわゆる「置き火」らしい。 私の駐在時のサイゴンは夜12時から朝の6時まで完全な夜間外出禁止令(カーヒュー)が布かれていた。 この場合は単なるcurfewというより、a wartime curfew 戦時下夜間禁止令 とか military curfew 軍事的夜間禁止令 と表現した方が適当かと思う。 この外出禁止令に背いて夜間外出をするとどういうことになるか? 検問をするには軍隊・憲兵・警官などがいる。 一応、推何(すいか)(何者だ?というような問いかけ)はするだろうけれど、運が悪ければそのまま射殺されてしまう。 夜中の急病人などはどうするのだろうと、よく考えたものだけれど。 当時、日本人医師が二人出向していたサイゴン病院の医師の話では、カーヒューの時間に撃たれ、腹部に数十発の銃弾を撃ち込まれた患者が運び込まれたことがあるという。 歓楽街に遊びに出るのはいいが、こんな事情でサイゴンではそれも12時までだ。 いや、12時には自宅に帰宅していなければ射殺される恐れがあるのだから恐ろしい。 ~~~~~~~~~ ここまで書いてきて、BBSをのぞいてみたら bikeikoさんが、「いきなり射殺されるのでは、恐ろしくて外出できませんね」と書いているが、「外出できない」では無くて「外出してはいけない!」のだ。 以前書いたように、夜間にはヴィエトコン(共産ゲリラ)が跋扈していたり、極端な例では大部隊でサイゴンを攻めてきたり(いわゆるテット攻勢といわれている)から、夜間外出禁止令をやぶって夜間外出して居るものは即、敵と見なされるのだ。 curfew というのは戒厳令の一種なのだ。 まさに「戒厳令の夜」ということになる。 だから12時をすぎれば軍隊のトラック以外はそれこそ猫の子一匹通らない静寂となる。 ~~~~~~~~~ 遊び友達の一人に日本レストランの経営者がいた。 彼は宿舎に麻雀に来て、麻雀が終わったらナイトクラブに行く。 そのナイトクラブ行きによくつきあった。 サイゴンのナイトクラブは大手のものが数軒あった。 最大手はカティナ通りにあったマキシム。 銀座通りのようなカティナ通り、これはフランス植民地時代のフランス風呼び名で、ヴィエトナム風には「ツゥー・ドォー」、自由という名の通りだ。 もっと正確に言うと「ツゥー・ドォー」とうのはサイゴン訛りの、南ヴィエトナム訛りの呼び名で、ハノイの正統ヴィエトナム語でこれを呼べば「ツゥー・ゾォー」と発音しなければいけない。 (一応うんちくを披露しておこう) このマキシムは正統派で格式高い。 ショーも豪華。 真っ暗な中にアオザイを着たヴィエトナム美人のホステスが一杯いて、私達がテーブルにつくとママさん(中国風にタイパンと呼ぶ)が応対してくれて指名のホステスを聞いてくれる。 ホステスは大抵番号で呼ばれていて「15番」という風に番号で指名する。 ヴィエトナムでは、少なくとも当時のヴィエトナムでは、ナイトクラブでも、米兵バーでも、とてもお行儀のよい世界だった。 ホステスが隣に座っても、お話をするか、ダンスをするかぐらい。 ステージではヴィエトナム流行歌の歌手がすすり泣くような哀しげな叙情的なヴィエトナムの曲を歌う。 そんなうちにそろそろ11時も過ぎてシンデレラ・タイムとなる。 普通ならそこで慌てて帰る所なのだが、このレストラン経営者はやっかいな性格の人で、最後の最後まで粘るのだ。 ホステスや従業員が帰る時になってもまだ飲みたがる。 結局12時まであと十数分という時になって、やっと車に乗る。 「おい!あと10分しかないよ!頼むよ!」 彼もさすがに必死になって夜のサイゴンの街を爆走する。 手に汗を握る境地だ。 私の宿舎に着くのが12時だったりする。 そこから彼はさらに自宅へ戻らなければいけないのだ。 キキ~~!!とタイヤをきしませながら彼の車が消え去る。 後年、私はインドネシアのジャカルタで彼と再会した。 毎晩あんな事を繰り返しても、何とか射殺されずに生き延びていたらしい。 しかし、悪い癖は直っていなくて、ジャカルタでも真夜中までつきあわされてしまった。 ~~~~~~~~~ 私自身が死にかけたことも数回ほどある。 その一つだが・・・。 ある晩、私は借りたバイクに乗って繁華街に出かけバーで飲んでいる内に夜間外出禁止令の時間になりそうなので帰宅しようとした。 宿舎近くにさしかかったところにロータリーがあって、酔っていることもあってロータリーの縁にあたってしまった。 ロータリーというのは丸い円形の形をした交差点を時計回りに、または逆回りにまわるもので、もともとは西洋で馬車が交差点ですれ違うために発明された形式。 だから、ゆっくり侵入して、他の車と歩調を合わせながら今度は自分の道へ脱出してゆくようになっている。 英国などではこのロータリー(これは米国風な呼び方で、英国では round about と呼ばれるが)が多い。 私は要するにスロー・ダウンしなければいけないロータリーにスピードを落とさずに侵入したばかりにロータリーの縁石にぶつかり、そのまま空中を飛んでロータリーの向こうに飛び込んでしまった。 その飛び込んだ先が大変な所だった。 米軍のバスやトラックの基地で、その廻りには鉄条網が張り巡らされていて、頭上には通常、監視兵がいた。 私はその鉄条網に飛び込んでしまって、全身鉄条網に切り裂かれてしまった。 幸運にもその時には監視兵がいなかった。 その頃、バイクに爆弾を積んだ女性が米軍基地に突入する「ホンダ・ガール」という今で言う自爆テロがあって、その時の状況なら私が「ホンダ・ガール」と見なされて射殺されても仕方がない所だった。 タイヤが空転して、ガソリンタンクからガソリンがこぼれているバイクを引き起こして、全身血まみれで宿舎に戻った。 翌朝サイゴン病院に行って日本人医師に治療を頼んだが、元獣医のこの医者は「そんなもの傷のうちに入らない」といって傷口を縫合してくれなかった。 だから今も私の身体にはいまでも鉄条網の傷跡が残っている。 ハッキリわかるのは左腕の大きな傷口だけだけれど。 これ以降、私は車の運転をあきらめて長い間車を運転することはなかった。 ~~~~~~~~~ 私にはいくらでもあるんだけれど、今日はもう一つ「死に損なった」話をしよう。 ある時、私はある仲のよかった日本人エンジニアと一緒にヴィエトナムの有名歌手が出演するクラブへ歌を聴きに行こうとしていた。 そのクラブはカティナ通りにあった。 サイゴン河の川岸でタクシーを降りて私たちはクラブの方へ歩いて行った。 もう少しでクラブという所で、私達の前を小麦色の脚をしたミニスカートの美少女が横切った。 当時はミニスカート全盛の時代だったし、暑い気候のサイゴンではなおさらだった。 ミニスカートをはく少女というのは、フランス系の女学校のお嬢さんか、バーガールが多かった。 そのミニスカートの魅力的なお嬢さんはすぐ近くのバーに入っていった。 彼女はバーガールらしい。 それなら、サイゴンティーさえおごればお話相手になってくれるはずだ。 私達は以心伝心、二人でそのバーに飛び込んだ。 彼女にサイゴンティーをおごって、会話を交わしていると、突然大音響と共に足の底から突き上げるような振動が走った。 私が握っている缶ビールが波打つほどのものすごい衝撃だった。 瞬間、何が起こったのかわからなかったが外が騒がしくなった。 出てみるとあのクラブから煙が出ている。 近づいてみるとそのクラブの建物は、中身を抜いたマッチ箱のようになっていた。 窓ガラスもすべて破れ、壁も歪んでいる。 道路には人間の身体やバラバラの手足が散乱している。 プラスティック爆弾が爆発したらしい。 ものすごいサイレンの音を響かせながら米軍の憲兵のジープが何台も飛び込んできた。 昔、テレビでラット・パトロールという第二次世界大戦のアフリカの砂漠を舞台に、ジープでドイツ軍を攪乱する米国舞台の活躍を描いたものがあった。 そのテレビ映画に登場するジープと同形のものがこのサイゴンの米国MP(陸軍憲兵)に使用されていた。 後部座席に回転する機関砲座を備えたジープ。 このジープにMPが人間を片っ端から放り込んで、近くのフランス病院向けて突っ走っていった。 ぼんやりして、野次馬の群れに入っていると突然、警官が数人現れた。 彼らはなにやら大声で叫ぶと空を向けて一斉に拳銃を発射しだした。 私はすぐわかった。 共産ゲリラは時限爆弾をしかけ、爆発した現場を見ようと集まる野次馬めがけて二次攻撃をかけるという。 警官はそれを防ごうと群衆を威嚇しているのだ。 近くにいた人間が殴られたり、つかまえられたりしている。 必死で群衆の中を逃げた。 ここで捕まるわけには行かない。 ようやく空いたタクシーをつかまえると宿舎向けて全速力で走ってもらった。 宿舎に帰って、二人でビールを飲みながらも、しばらく二人は無言だった。 あの時、あのバーガールにひかれてあのバーに立ち寄っていなければ、私達はあのクラブの爆発にそうぐうしていた訳だ。 負傷ですんだか? それとも運悪く即死していたか? それはわからない。 人間の運命とはわからないものだとしみじみ思った。 それに本件もまた、支店長に明かすわけには行かない。 自己責任としておこう。 この重い暗い秘密を背負ったまま、私はまた雄々しく人生を踏み出すのであった。
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