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カテゴリ:苦難の20世紀史
ドイツのソ連侵攻は、フィンランドにも大きな影響を与えるものでした。 多くのフィンランド国民は、ソ連に奪われた旧領土を取り戻す絶好の機会と楽天的に考えていました。戦争を回避したいと考えていたリスト・リュティ大統領や国軍総司令官グスタフ・マンネルヘイム元帥も、覚悟を決めざるを得ませんでした。 この頃、フィンランド北部ラップランド地方には、エデュアルト・ディートル大将率いるドイツ・ノルウェー軍(第20山岳軍)約20万名が展開していました。このドイツ軍は名目上は、「ノルウェーからドイツ本国への帰国待ち」というものでしたが(暫定的に、「領内通行許可の「お礼」として、「フィンランドが他国から侵攻を受けた場合、ドイツ軍はフィンランド防衛に協力する」という軍人間協定も結ばれていました。驚くことに開戦までドイツ・フィンランド間の軍事協定はこれだけでした)、実際には、開戦後ソ連の北極海の不凍港ムルマンスクを占領して、イギリスからのソ連支援路を遮断する任務を帯びていました。 今や敵対関係になったドイツ軍が進駐するフィンランドを、ソ連がどう考えるかは明白でした。 ドイツとの戦争が始まると、ソ連軍は直ちにフィンランド領内のドイツ軍への爆撃が開始されました。 さらにソ連軍の爆撃は、ドイツ軍だけではなく、ヘルシンキやトゥルクといった大都市にも向けられました。6月25日には、ソ連軍爆撃機隊をフィンランドの戦闘機隊が迎撃し、26機を撃墜しました。これが事実上の継続戦争初日となりました。宣戦布告のないまま、フィンランドとソ連は戦争状態に突入したのです。 「我々は平和を望んでいた。しかしソ連の爆撃で戦争状態に突入せざるを得なくなった」 翌6月26日、リュティ大統領は、ラジオでそう演説し、国民に戦争再開を報告しました。 一方でリュティは、「今回の戦争は、ソ連に冬戦争で不当に奪われた領土を取り戻すことのみを目的とする」と明言し、ドイツと同じ戦争目的を持っていないことを主張することを忘れませんでした。これは国軍総司令官マンネルヘイム元帥との相談の上決定した、フィンランドの譲れない一線でした。 「来るべき戦争は、フィンランドとナチス・ドイツが目的を同じくする「同盟戦争」ではなく、全く別の戦争である。たまたまドイツ軍と共通に敵に対して、同じ戦場で戦う「共同戦争」であるにすぎない。これはフィンランドの独立を守る防衛戦争であり、それ以上の戦争は協力しない」 リュティもマンネルヘイムも、イギリス風の民主共和制を基調とするフィンランドの政治体制の信奉者でした。ナチズムに対して、共感するところはなかったのです。そのため後日ですが、ドイツがユダヤ人の引き渡しを要求すると、フィンランド側は頑なに拒絶しています。 フィンランドにとって、ドイツはソ連と一緒に戦う戦友であって、ナチスがソ連を征服することを望んでいるわけではなかったのです。 その意識は「継続戦争」という言葉に端的に表れています。これは冬戦争の延長であり、ドイツの同盟国として、第二次世界大戦を戦うものではないという意味が込められているのです。 バルバロッサ作戦前、独ソ間の緊張をみていたフィンランドでは、冬戦争後解除していた予備役の再動員がかけられており、人口370万のフィンランドとしては国力の限界を超えた53万名が集められていました(その内約14万名は、ロッタと呼ばれる非戦闘任務の女性兵士でした)。 継続戦争開始同時に、フィンランド軍は、豊富な兵力を使って短期決戦を挑んでいます。 ハンコ半島に駐留するソ連軍2個師団約3万を包囲する一方、ハインリッヒス中将を総司令官とするカレリア軍はカレリア地方全域に進撃しました。 先陣を切って大活躍したのは、エルンスト・ルーベン・ラガス大佐率いるフィンランド唯一の戦車師団でした。戦車師団の主力は、冬戦争でフィンランドが鹵獲したソ連製T26軽戦車(フィンランド名はヴィッケルス)です。皮肉な話したですが、ソ連軍は自軍の戦車によって痛い目を見ることになったのです。冬戦争の手痛いしっぺ返しでした。 ヴィープリ市を初めとするカレリア地峡全域を2ヶ月以内に奪回、ハンコ半島ではソ連軍の抵抗が続いているものの、旧領の大半を取り戻し悲願は達成されました。 一方、ドイツ軍のカイテル元帥からは、フィンランド軍にレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)攻撃に参加するようにと、執拗に要請されていました。おりしも、ラップランドからソ連領に侵攻したドイツ・ノルウェー軍は、ソ連軍の激しい抵抗と、北極圏の過酷な環境と悪路に悩まされて攻撃は挫折、再びフィンランド領近くまで後退していました。このままでは、北からバルバロッサ作戦は、崩壊する危険性も出てきました。 フィンランドの国力は、長期の戦争に堪えられる体力はなくなっていましたが、ドイツとソ連が激しい戦闘を続けている状況では、とても戦争離脱できません。 しかしフィンランド軍の損害も大きく、限界まで軍に人員が投入された結果、国内産業、特に食糧の生産力不足は、次第に深刻な影を忍び寄らせていました。戦争は止めたいのに、不足する食糧その他の物資の供給は、ドイツに依存するしかありませんでしたから、ドイツの要求を拒絶し続けるわけにいかなくなってきました。 しかし甚大な犠牲が出ることが予想されるレニングラード攻撃に同意する事も出来ません。それにレニングラード攻撃に参加すれば、ソ連はフィンランドとの講和に応じなくなる危険もあります。 次善の策として、ドイツの顔を立てつつ、ソ連を必要以上に刺激しない方法として、マンネルヘイム元帥は、タルヴェラ少将らの意見を採用して、東カレリアに侵攻、ムルマンスク鉄道を遮断することに決定しました。 こうして現在でも物議を醸す事になるフィンランド軍の東カレリア侵攻が開始されることになります。 次回は東カレリア侵攻の背景について書いてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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