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カテゴリ:苦難の20世紀史
久々、フィンランドの話です。 マンネルヘイム大統領の時代(1944年8月~1946年3月)に触れてみたいと思います。 ソ連との講和に成功したものの、フィンランドの状況は厳しいものでした。 国家としての主権と、議会制民主主義、資本主義の存続は認められましたが、国土の15パーセント弱に及ぶカレリア地峡とペッツァモ地方をソ連に割譲し、カレリア地峡や東カレリアからの難民も50万人を超し(参考までに冬戦前のフィンランドの人口は370万人です)、彼らに衣食住も与えなくてはなりません空にソ連に3億ドルもの賠償金を6年以内に払うことも課せられていました。 さらにラップランドでドイツ軍との戦い続けながら、フィンランドは軍を解体しなくてはならないという難事もありました。どちらを向いても希望を見いだせない、マンネルヘイム大統領の時代はそんな時代でした。 ドイツとのラップランド戦争が、本格的になろうとしていた頃、ヘルシンキの連合国管理委員会に、責任者のN.A.ツダノフ大将(ソ連軍)が着任しました。 前にブログで少し触れましたが、連合国管理委員会は、事実上ソ連政府の出先機関でした。停戦協定ではソ連はフィンランドの主権を尊重するとされましたが、ソ連にそれを遵守する気はありませんでした。 ツダノフは、それまでフィンランドで非合法とされてきた共産党の活動を承認し、反ソ運動を取り締まるよう要求しました。そして親ソ派のフィンランド人たちを支援して、フィンランド人民民主同盟(SKDL)を結成させるなど露骨な内政干渉をおこなっています。 マンネルヘイム大統領は、ソ連との関係を悪化させないためSKDLを無視できず、嫌々ながらSKDL党首イルホ・レイリを内閣に入閣させ、警察権を有する内務大臣に任命しました。 一方マンネルヘイムは、この困難な情勢の舵取りをするべき首相に、ユホ・クスティ・パーシキヴィを起用しました。 パーシキヴィは親ソ派の大物政治家でした。彼は冬戦争も継続戦争も反対し、マンネルヘイムと長年対立していた人物でもあります。 マンネルヘイムがソ連のもつ暴力性を危険視して、独立を守るためにフィンランドの軍備の整備に努力したのに対して、パーシキヴィはフィンランドがいかに努力したところでソ連相手に勝ち目はないから、ソ連と友好・協調関係を維持していくことでフィンランドの独立を維持しようとする考えの持ち主でした。そのためスターリンをはじめとするソ連の政府要人と積極的に交友をもち、共産主義に一定の理解をしていました。 2人ともソ連を危険視して、戦争を避けようという考えは同じだったのですが、結論に至る思考の過程が正反対であったため(マンネルヘイムは生涯共産主義を嫌っていました)、ウマが合わなかったのです。 パーシキヴィの首相就任に、ソ連は歓迎し、アメリカとイギリスは「いずれフィンランドは赤化するだろう」と、彼を白い目で見ました。 しかし両者とも、フィンランドの議会制民主主義と資本主義を維持していくのが、フィンランド国民にとって困難であっても最善の道であるという考えで一致していました。だからこそマンネルヘイム大統領は、困難な首相の椅子を彼に委ねたのですが、そのことをソ連も西側諸国も知るよしもありません。 これに対して、マンネルヘイムはすぐさまツダノフと面談し、「フィンランド湾の防備を無くすことは、ソ連を攻撃とようとする第三国がフィンランドを攻撃して来た場合、防戦する事が出来ない。かえってソ連の国益を損なう事になる」と主張して、命令を撤回させました。 この時マンネルヘイムが構想したフィンランドの生きる道は、大国間との争いに巻き込まれないよう中立政策を維持し、フィンランドの独立と安全は、ソ連という危険な隣国によって承認され保障されるべきであるというものでした。 つまりソ連にとって「フィンランドを中立の独立国として認めてやろう。その方が利用価値がある」と思わせようということです。 ドイツであれアメリカであれ、他の大国を頼ることは、ソ連のフィンランドへの野心を呼び起こし、再び侵略を招きかねないのです。 何度目かの会見の際、マンネルヘイムはツダノフに示した覚書には、「ソ連はフィンランド国民に対して、自由な政治体制の選択を保障する。その代わり、フィンランドはソ連と敵対する第三国がソ連の領土を攻撃する際に、フィンランドの国土を利用することを断固として拒否し、自国の防衛と両国の安全保障のため戦う。その際ソ連に対して軍事支援を要請する」と記されていました。 この提案にはさすがのツダノフも驚き、今まで高圧的な態度で接してきた姿勢を改め、マンネルヘイムへの態度が大きく軟化したといいます。マンネルヘイムの提案は、ソ連がフィンランドに対して最も懸念している部分を正確に理解して、それを払拭するものだったからです。 もちろんこのマンネルヘイムの提案は諸刃の剣でもあります。 もし米ソ間で戦争が起きれば、否応なくフィンランドは中立政策を放棄してソ連との軍事同盟を受け入れ、アメリカやイギリスを敵として望まぬ戦争に参加しなくてはいけななるのです。 フィンランドが東西両陣営から距離を置いた中立国として生きていくには、常に米ソの対立が深刻にならないよう気を配り、両国の対立解消に努めなくてはいけないのです。 自国の安全すら不安定なのに、世界の動きにも目を配らなくてはいけないのですから、これがいかに難しいものであるかは言うまでもありません。 しかしマンネルヘイムは、そこまで出来なければ、フィンランドの独立国としての未来はないという結論に至ったのです。 ネタバレな事を言ってしまいますと、この困難きわまりないマンネルヘイムからの宿題を、フィンランド国民はソ連が崩壊し、21世紀を迎えた今日でもし続けています。 1945年3月、マンネルヘイム大統領は総選挙を実施しました。まだ欧州の戦争は続いており、情勢を危惧する声は強かったのですが、自身の表明した路線を国民が支持してくるかの信任を問いたいと考えたのです。 結果は、フィンランドに健全な民主主義が成長している事を示すものとなりました。 ソ連の露骨な干渉があったにもかかわらず、SKDLは議席の25パーセントを確保したものの過半数には遠く及ばず、政権を維持したのは従来の与党でした。 マンネルヘイム路線は国民に支持していることが証明されたのです。SKDLが伸び悩んだことにスターリンは失望したといわれています。 一方、リスト・ヘイッキ・リュティ前大統領の戦争裁判も開始されました。 もしソ連がフィンランド全土を占領していたら、自分も法廷に立たされていたマンネルヘイムにとって、リュティの裁判は他人事でなかったようです。 「前大統領の時代、我が国は非常に困難な情勢にあった。そのこと考慮してほしい」と発言して、ツダノフから司法権への介入ではないかと批判され、慌てて個人的な意見を述べただけと弁明する一幕もありました。 パーシキヴィ首相も「継続戦争は防衛戦争」という見解を示しましたが、三権分立の原則から表だった弁護を政府は出来ず、ソ連側検察は死刑を求刑してきました。 裁判の判決が出たのは1946年のことで、リュティは禁固10年が決まりました。 収監されたリュティ前大統領は、3年後獄中で体調を崩したことから出獄しましたが、以後政界に復帰することなく、戦争犯罪人として静かに余生を送りながら1956年に死去しました。 フィンランド国民は、リュティを自分の身を犠牲にしてフィンランドを戦争から離脱させた大統領として敬い、ソ連の猛烈な反対を押し切って国葬で送っています。 戦争裁判が終わり、フィンランドの行くべき方向性が大よそ見えてきた1946年3月4日、マンネルヘイム大統領は辞任を表明し、後継の大統領にパーシキヴィを指名しました。 78歳の高齢な上に、冬戦争以来の激務で体調が悪化の一途をたどっていた彼に、もはや大統領職を続けるのは困難だったのです。 フィンランドがおぼろげながら進もうとしている道がどうなるかは、次のパーシキヴィ大統領に委ねられることになりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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