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カテゴリ:苦難の20世紀史
今回はフィンランド軍の東カレリア侵攻の歴史的背景について書いてみたいと思います。 ロシアでは現在も、「ナチスに迎合したフィンランドが、領土的野心を持って侵略してきた」と主張していますが、簡単に断言出来る話でははありません。 フィンランド人が民族叙事詩と位置づける「カレワラ」は、カレリア人にとっても民族叙事詩です。言葉も日本語で例えるなら、標準語と関西弁位の差しかありません。そのため細部では異なるもののの、フィンランド人、カレリア人、エストニア人の三者には、ほとんど通訳は必要ありません。 フィンランド人もカレリア人も、スウェーデンとロシアの戦争で互いに徴用され、戦場で敵として戦うことはあっても、それ以外は至って友好的な関係を続けていました。これは現在の国境とは異なり、当時は行き来が比較的自由でした。スウェーデンもロシアも両者の交易を邪魔しなかったのです。 19世紀はじめにフィンランドがロシア領(形式的にはロシア皇帝がフィンランド大公を兼ねるフィンランド大公国という独立国でしたが)になると、同じロシアの領土ということもあって、エストニアを含めた三者の関係は一層親密になっています(ただし、ロシア帝国内での地位は微妙に異なっており、フィンランド人が形式的にはロシア人と対等な立場を持っていたのに対して、カレリア人とエストニア人は被支配階級として一段低い地位におかれていました)。 カレリアでも民族自決の機運が生まれ反乱が起きました。ただし面白いのはカレリアは独立国を目指さず、フィンランドの一部になることを目指しての反乱でした。 この時、フィンランドの政治指導者はグスタフ・マンネルヘイム中将(当時)でした。先に彼は、エストニアに援軍を送って、独立を助けています。そして次にカレリアからの救援要請に対して、フィンランド国民にカレリア支援を訴えています。 元ロシア軍人だった彼は、ロシアがカレリアをどのように遇して来たかをつぶさに知っており、同族意識から助ける必要があると考えていたのです。加えて、ロシア革命が暴力的な革命へと変貌していったことに警戒感を持っており、共産政権打倒も考えていました。 しかし独立したばかりのフィンランド国民は、独立戦争に疲れ切っており、マンネルヘイムの意見に同調しませんでした。おりしもソ連は、「民族自決を尊重し、カレリアに住民投票をおこない、その結果を受け入れる」と声明を出していたため、フィンランド国民の多くは、平和的にカレリアは独立もしくはフィンランドの一部になると信じていたのです。 悩ましい話ですが、ソ連は同じような声明を出しながら、フィンランドを力ずくで押さえ込もうとして独立戦争に発展した経緯を、国民の多くは忘れてしまっていたのです。 「我々はカレリアの同胞たちを見捨ててしまった。ボリシェヴィキ(元々は「多数派」という意味ですが、ロシア共産党の内、政権を取ることになる最も過激な左派を指します)は、約束を守らないだろう・・・。彼ら(ソ連)のもつ暴力性は危険だ。政権が脆弱な内に倒したかった。ボリシェヴィキはいずれ我が国(フィンランド)に大きな災厄をもたらすだろう」 この発言を、落選した悔し紛れの意見と切り捨てることも出来ますが、後日マンネルヘイムの発言は、すべて的中することになります。 一方、カレリアの独立運動は、フィンランドの支援を得られないままソ連軍によって力ずくで制圧され、独立派の人々は処刑とシベリア流刑が待っていました。 ここにいたり、欺されたことに気がついたフィンランド国民の衝撃は大きかったと言われています。ソ連の口約束を真に受けて、「兄弟」を見捨ててしまったからです。 今更ながらに「マンネルヘイム将軍の言うとおりにしていれば・・・」と後悔しますが、すべては後の祭りです。フィンランドが出来ることは、カレリアから命からがら逃げてきた人々を保護し、フィンランドの市民権を与えることだけでした。そしてフィンランドも、マンネルヘイムの言葉の通り、ソ連の圧力によって、冬戦争の受難を迎えることになりました。 ソ連は、フィンランドから割譲させたカレリア地方とカレリア自治共和国を併せて、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国というソ連内自治共和国を建設しました。このカレロ・フィン国の最高会議幹部会議長は、冬戦争時ソ連の傀儡国フィンランド民主共和国の首班だったオットー・クーシネンでした。 この人事は、スターリンのお気に入りであったクーシネンに、新しいポストを作ってやろうという程度の理由だったと言われていますが、フィンランドとしては無視できません。カレロ・フィン国がいつ「フィンランド正統政府」に格上げされて、再侵略に利用されるかわかったものではなかったからです。 そのフィンランド人の危機感を煽るように、当のクーシネンは、あいも変わらず「カレロ・フィン国は、北欧全土の抑圧された労働者たちを解放する尖兵となるのだ!」と景気のいい発言をしていました。彼の存在と冬戦争の経緯から、フィンランドは一層ドイツを頼りにしていくことになります。 さらにクーシネンは、「近いうちに北欧の労働者たちを解放する」ためにと、強引にカレリア人を徴発したため、彼らから強い反発を受けました。 カレリア人からすれば、かつて独立運動を助けてくれなかったフィンランドに、恨み言がないわけではありませんでしたが、ソ連への憎悪はそれ以上に強かったのです。それに兄弟国フィンランドを侵略するために銃を持たされるのはまっぴらだったのです。こうしてクーシネンは彼自身が気がつかない間に、フィンランド人とカレリア人を連携させる土台を築いてしまっていたのです。 フィンランド人からすれば、放っておけば再びソ連軍によって鎮圧されるカレリアの兄弟たちを、また見捨てる事は道義的にも出来ませんでした。 そしてドイツから要望と、タルヴェラ少将ら、「旧国境では再びソ連軍の反撃を受けた場合守りきれない。守るのに適した地域、侵攻の防波堤となる緩衝地帯の確保が必要」という軍部の希望と合わさって、東カレリアへの侵攻を避けられないものにしてしまったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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