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2011.08.21
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カテゴリ:苦難の20世紀史

 前のめり中

1941年9月4日、フィンランド軍は国境を越え、東カレリアへと進攻を開始しました。

ドイツ軍の支援もあり、防衛していたソ連軍は、フィンランド軍の倍以上の兵力であったにもかかわらず、戦意は低く早々に戦線は崩壊していきました。
なにせソ連軍の大半はカレリアでかき集められた補充兵が多かったので、カレリア兵の多くが武器を持ったままフィンランド軍に寝返ってしまったのです。

カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国(以後カレロ・フィン国と表記します)の首班オットー・クーシネンは、「フィンランドの資本主義者たちの侵略に屈してはならない」と呼びかけますが、東カレリアの諸都市の多くがフィンランド軍を解放軍として歓迎して、次々に降っていきます。

タルヴェラ少将のフィンランド軍第6軍団は、進攻当日にラトガ湖北東の要衝オロネツを占領し、カレロ・フィン国とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国との国境であるスヴィル川まで進撃し、ムルマンスク鉄道を遮断しながらソ連軍を駆逐しながら北へとって返し、ヘグルント少将率いるフィンランド軍第7軍団は北側からカレロ・フィン国の首都ペトロザボーツクを目指して、いわゆる分進合撃(攻撃目標に対して、複数のルートから分散して進撃して、攻撃に際しては集結して戦闘する方法)の態勢で進撃が続きました。ソ連軍の抵抗は微弱で、フィンランド軍の進撃を遅らせていたのは、カレリアの貧弱な道路事情の方でした。

9月末、ペトロザボーツクにフィンランド軍が迫ると、クーシネンは脱出を望むロシア系住民(東カレリア地域は、ロシア革命後の粛清で、カレリア人の人口が激減したため、ロシア人の大量移住がおこなわれていました。彼らロシア系カレリア人からすれば、フィンランド軍は侵略者でした)に、「最後の一兵まで侵略者と戦え」と命じますが、自身はいち早くモスクワに脱出してしまいます。

10月1日、フィンランド軍は必死に抵抗するソ連軍(もちろん主力はロシア系カレリア人の部隊です)と激しい戦闘の末、カレロ・フィン国の首都ペトロザボーツクを占領します。

進攻から1ヶ月あまりで、フィンランドはドイツが求めていたムルマンスク鉄道遮断という戦略目標を達成しました。

その後もフィンランド軍は東カレリア全土の解放を目指して転戦し、12月までに東カレリア第2の都市メドベジュゴルスクを占領し、折しも冬となり、豪雪でカレリアの貧弱な道はすべて埋まってしまったこともあり、進撃は停止しました。
この時、ハンコ半島で抵抗を続けていたソ連軍も降伏し、フィンランドの国土からソ連兵は消えました。

フィンランド国民は、念願の旧領土奪還、東カレリアのフィンランド領併合に熱狂しますが、この時不吉な兆候もありました。

スヴィル川まで進撃してフィンランド軍と手を結ぶ予定だったドイツ軍が、チフビンでソ連の名将ゲオルギー・ジューコフ将軍に破れ、敗退してしまったことです。
これにより、ソ連随一の生産設備を持つ軍需工場と一大軍事拠点であるレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)の包囲は完成しませんでした。

さらにソ連極北の不凍港ムルマンスクを攻略しようとしていたドイツ・ノルウェー山岳軍団も、想像を絶する局地の自然環境と悪路で進撃は停滞し、フィンランド領内まで撤退してきていました。

この二つの出来事は、レニングラードで大量生産されるソ連軍兵器の供給と、ムルマンスクに続々と陸揚げされるイギリスからの支援物資の双方を阻止することが出来ていない事を意味していました(ムルマンスク鉄道も、翌年にはペトロザボーツク陥落後、迂回路を建設したり、オネガ湖を艀や船舶を使って輸送を再開するようになっていきます)

この頃、ドイツ軍はモスクワまで10数キロまで迫ったものの、極寒のロシアの大地に車輛は凍り付き、将兵は疲労して弾薬や燃料も不足していました。一方のソ連軍はクレムリンに留まって徹底抗戦を唱えるスターリン書記長のもと、モスクワ市民は老若男女を問わず徴発され、モスクワ防衛にかり出されていました。また11月末になると厳寒の戦闘に慣れたシベリアからの増援部隊も到着しました。疲労困憊のドイツ軍は攻めきれず、多大な出血を強いられていました。さらにソ連軍は反撃でドイツ軍の後方に進出し、補給を脅かし始めました。

ドイツの名将ハインツ・グデーリアン上級大将(彼はモスクワ攻略を最優先にと主張し続けていました)は、もはやモスクワ攻略の戦機は去ったとして、独断で部隊の後退を命じました(怒ったヒトラー総統は、グデーリアンを解任しています。以後、軍への過剰な口出しがドイツ軍の行動を縛るようになっていきます)。この判断は多くのドイツ軍将兵を壊滅の危機から救いましたが、一方でドイツ軍のモスクワ攻略の機会を永遠に奪い去るものでした。

ドイツ軍の敗退は、1941年中に戦争はドイツの勝利で終わると考えていたフィンランド国民にとっては、明らかに凶報でした。フィンランドは独自に戦争離脱について考えなくてはならなくなりました。

また東カレリア進攻は、フィンランドからすればやむを得ない選択でしたが、国際社会の反応は芳しくないものでした。

フィンランドに終始同情的だったイギリスは、ソ連の圧力もあって、12月6日、フィンランドに対して宣戦布告に踏み切ることになります(マンネルヘイム元帥と個人的に親交のあるイギリスのチャーチル首相は、「フィンランド軍の東カレリア進攻は、自分個人としては立場を理解しているが、国民を同意させられるものではない」という私信をマンネルヘイムに送っています)

そしてフィンランドにとって最大の凶報は、洋を隔てた太平洋側で起きます

1941年12月8日、日本海軍空母機動部隊がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を攻撃し、戦火は世界にと波及していきます。フィンランドは戦争に抜け出すどころか、イギリスとアメリカも敵に回し(アメリカはこの時点ではフィンランドと国交は断交も宣戦布告もせず、関係を維持しています)、ますます戦争に深みにはまりこんでいくことになります。

次は苦難の終戦工作について触れていきたいと思います。






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Last updated  2011.08.24 21:26:58
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