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カテゴリ:苦難の20世紀史
今回は、フィンランドの苦難の終戦工作についての話です。小国の悲哀をとても感じる話です。 1943年、スウェーデンを舞台に、フィンランドとソ連双方の秘密裏の接触が開始されました。 準備交渉の席で、ソ連は「冬戦争前の国境に戻す」という気前のよい条件を出しています。過酷な条件がなかったことにリュティ大統領は安堵しましたが、安心するのは早すぎました。 両国の接触は、すぐにドイツの嗅ぎつけるところになりました。レニングラード攻撃などを拒否するフィンランドの態度に不信感を強めていたドイツは、密かに監視していたのです。また秘密交渉と言いながら、ソ連はフィンランドとの接触を隠そうとしませんでした。これでは気がつかない方が不自然です。 ソ連がの思惑は、フィンランドとドイツ双方に不信と対立の火種を蒔くことにあったのです。初めから交渉を成立させる意図も、気前の良い講和条件も守るつもりはありませんでした。 フィンランドの単独講和の動きに対して、すぐさまドイツは経済制裁をもって応えました。フィンランドへ食料や物資の輸出を規制し、圧力を加えたのです。 フィンランド政府は、ドイツの経済制裁、ことに食料輸出の停止に音を上げました。当時、軍と軍事産業に人手を取られていたため、フィンランドの食糧自給率は40パーセント程度まで低下しており、ドイツからの輸入だけが頼りでした。 「ドイツの輸送船が何かの都合で遅れると、街中から物資が姿を消し、フィンランドは将に貧ランドと化した」とは、当時ヘルシンキ大学に招聘されていた日本人学者の回想です。 このままでは、戦争から抜け出す前に、国民は飢え死にしてしまいます。ドイツの圧力に屈したフィンランド政府は、ドイツを裏切らないという誓約をたてざるをえませんでした。 終戦工作に苦心するフィンランドに、援護射撃がありました。それは1943年11月末、イランのテヘラン開かれたテヘラン怪談での出来事です(英チャーチル首相、米ルーズヴェルト大統領、ソ連スターリン書記長ら、連合国のトップが一堂に会して会合しました)。 この席上、連合国側はドイツや日本、その同盟国に対しては、一切の分離講和を認めず、あくまでも無条件降伏を目指して戦うことが表明されましたが、チャーチル首相の尽力により、フィンランドのみは、その戦争の特殊性を鑑み、分離講和を認める事が表明されました。冬戦争以来のフィンランドの苦渋と、「座り込み戦争」は、英米にそれなりに評価されていたのです。 会談後、1944年2月、スターリンはフィンランドの単独講和に応じる意向があることを表明しました。 ドイツに屈服した後も、水面下で交渉再開の糸口を探していたフィンランド政府は喜びましたが、すぐにそれは失望に変わりました。 前年は「冬戦争前の国境に戻す」といっていたソ連でしたが、今度は、「冬戦争後の国境線を認めること。また賠償金とさらなる領土割譲に応じること。フィンランド領内にいるドイツ軍を国内から追放、または抑留すること」と、ハードルを大幅にあげてきたのです。 ソ連の態度の豹変には、ドイツの衰退がありました。 1944年2月時点、ドイツの敗色は、もはや覆い隠すことが出来ないものとなっていました。前年5月にアフリカを失い、イタリアに英米軍が上陸していました。東部戦線でも、前年のクルクスの戦い(1943年7月4日~8月27日)に敗れて以来、完全に主導権を失い、ウクライナの大半を喪失、北では2年近く包囲されていたレニングラード周辺のドイツ軍は駆逐され、フィンランド湾・バルト海の制空権・制海権は、ソ連の手に渡っていました。 ソ連の高圧的な主張に、フィンランド政府も議会(の秘密会議)も紛糾しました。戦争から抜け出したいが、容易にのめるものではなかったからです。 それに現実問題として、いかに劣勢になってきたとはいえ、領内にいるドイツ軍を追い出す力はフィンランド軍にはありません。さらに今日まで共に戦ってきたフィンランド兵とドイツ兵の間には、戦友愛も芽生えており、国の都合だけで、今日の味方は明日の敵として割り切って戦うことは出来ません。 ドイツ軍を追い出すために、ソ連政府は、ソ連軍を協力させる用意があるとも言ってきましたが、フィンランドにとっては、ソ連こそ世界でもっとも信用できない存在であり、受け入れられるものではありませんでした。 フィンランドの再度の単独講和の動きを知ったドイツは、直ちに報復行動に出ました。フィンランドへの食料輸出を停止し、武器の供給も大幅に削減しました。 おりしもハンガリーが、中立国ポルトガルを通じてソ連との講和を画策していた事が発覚し、ドイツ軍はすぐさま国家指導者ホルティ・ミクローシュ執政の息子を誘拐して脅迫、さらに親独派を支援してクーデターを起こさせ、ハンガリー全土をドイツ軍政下におきました(失脚したホルティは、ドイツの後押しで政権を取ったサーラシ・フェレンツ首相に、「国を売り渡す者よ、私を吊るす革紐は用意出来たかね?」と悪態をついたと言われています。誘拐されたホルティの息子は、戦後アメリカ軍により無事に解放されました)。そしてフィンランドに対しても軍事介入をほのめかしました。 ドイツからの圧力の苦しむ中、一途の望みをかけて、密かにモスクワ入りしたパーシキヴィー代表らは、ソ連が新たに提示した苛烈な内容に絶句しました。 ソ連政府は、先に挙げた条件の他に、賠償金を6億ドル(当時のフィンランドの外貨獲得額約5年分)。鉱物資源の豊かなペッツァモ地方の割譲を求めてきたのです。 言葉を失ったパーシキヴィーに対して、ソ連モロトフ外相は、「ドイツはもうすぐ戦争に敗れる。君たちはその同盟国だ。敗者が勝者に要求出来るなど笑わせるな」と怒鳴ったと伝えられています。 この一連のソ連の態度は、勝者としての驕りという事以外に、交渉をまともに成立させる意図がなかったからです。 テヘラン会談での英米の圧力もあって、フィンランドに単独講和を呼びかけることに同意したものの、会談後すぐにスターリンは赤軍首脳部にフィンランド侵攻計画の立案を命じています。その際、次のような発言をしています。 「戦争の勝敗は決した。あとは米英との対決に備えて、ソヴィエトの勢力圏をいかに拡大させることが出来るかだ。フィンランドは未来永劫、ソヴィエトの勢力圏であらねばならない」 要求のハードルをあげたのも、英米に交渉をしている態度を見せつつ、無理な条件をつけることでフィンランドが拒絶し、侵攻の正当化、口実を得たい思惑があったのです。 もしフィンランドがソ連の要求を丸呑みしたとしても、さらなる過酷な追加要求をおこなって、交渉を決裂させるか、真綿で首を絞めるように独立を奪うかが待っていたでしょう。ソ連にテヘラン会談の内容を遵守する意志はなかったのです。 一方のフィンランドは、条件が緩和されたならともかく、一層厳しくなった講和内容は、フィンランド政府も国民も、到底受け入れることが出来るはずもありません。 講和を熱望していたマンネルヘイム元帥ですら、「ソ連の提案は、フィンランドの独立を破壊しかねない提案だ」という、リュティ大統領の意見に反対しませんでした。そして1944年4月18日、フィンランドはソ連側の要求を正式に拒絶しました。 これに対し、ソ連は「フィンランドがソ連の友好的な講和条件を拒絶した以上、これから起こる流血の責任は、すべてフィンランドの責任である」という声明を発表しました。 声明は言うまでもなく、ソ連のフィンランドに対する全面攻勢のサインでした。 そして北欧に短い夏が訪れようとしていた1944年6月、フィンランドにとって、継続戦争最大の危機が、目前に迫っていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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