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カテゴリ:苦難の20世紀史
今回は、1944年夏のソ連軍の大攻勢の話ではなく、その前段階の1943年末ぐらいまでの話などを中心に見てみたいと思います。 1943年は、フィンランドにとって後日、大きな影響となる出来事がたくさんあった年でした。 両国の戦闘は、もっぱら航空機の戦いが主で、他はソ連が後方攪乱のために送り込んできた赤軍パルチザンとの戦いでした。 赤軍パルチザンは厄介な存在で、共産主義者やドイツ軍に家族を殺された者などで構成されており、ドイツ兵(その同盟国のフィンランド兵)に対する憎悪が激しく、軍施設や鉄道だけではなく、民間人でも容赦なく襲撃しています。 よくドイツ軍が無差別のロシアの村々を焼き払ったと批判されますが、その暴挙にいたった一端は赤軍パルチザンの行動にありました。 パルチザンは負傷兵であろうと民間人であろうと容赦なく虐殺していくので、怒ったドイツ軍は、報復としてパルチザンに協力していると見られる村々を焼き払い、さらなる報復合戦を招く負の連鎖に陥っていたのです。 同じ事象は日本軍が中国で、アメリカ軍がベトナムで、さらにソ連はアフガニスタンで手痛く経験することになります。 フィンランドでも、赤軍パルチザンは、郵便バスを襲ったり、教会や小学校を襲撃するなど、フィンランド人の怒りを買っています(教会の時は牧師が殺害されました。小学校の際は幸いにも児童に死者は出ませんでした)。 フィンランド軍は赤軍パルチザン掃討のため部隊を派遣しています。狩猟を得意とするフィンランド人に、パルチザン狩りは特性にあったようで、国内に侵入したパルチザンは、1943年中にほぼ壊滅し、さらにソ連領内にあるパルチザンの補給基地も越境して破壊ています。 この手並みに、パルチザンに手を焼いているドイツ軍は感心して、フィンランド兵たちを手元に置きたがったと言われています。 フィンランド軍トップのマンネルヘイム元帥と、ラップランドに駐留しいるドイツ軍第20山岳軍団司令官エデュアルト・ディートル上級大将の関係は、公私とも極めて良好でした。 登山家らしい忍耐強く知的で明朗な性格なディートルは、年もマンネルヘイムの息子がいたら丁度それぐらいだったということもあったのでしょう。2人はとてもウマが合ったようです。 ディートルは、フィンランドの事情をよく理解しており、戦争離脱に舵を切ろうとするフィンランドに同情していました。彼は他国に駐留する軍司令官として、部下の安全を図る事に気を向けています。 つまりフィンランドが連合国側と講和した際は、ドイツ軍を速やかにノルウェーまで撤退する方法についての研究を、密かに部下に命じています。 「国が違うのだから、行く道が分かれてしまうのは仕方ない。今までの彼ら(フィンランド人)の我々への献身的な協力を思えば、裏切りだと恨むべきではない。友人を守るために、速やかに家に帰ろうじゃないか」 そうディートルは部下を諭したと言われています。 戦争中、武器の進歩はめざましく、開戦当時の武器のほとんどは、旧式化していて役に立たなくなってきていたのです。これでは来るべきソ連との戦いに勝機を作ることは難しいと言わざるを得ません。 これにディートルは口利きをしてくれます。 「フィンランドが我が国から武器を買うと言うことは、これからもソ連と戦う事の証ではないか。何を躊躇う必要がある?」 そういってくれたのです。ディートルの口利きもあってか、武器購入についてはドイツ側は方針を改めて売ってくれることになりました。 メッサーシュミットはドイツを代表する一流戦闘機です。今までブルーステルなどの二流戦闘機で我慢していたフィンランド戦闘機隊は、ようやく真の一流戦闘機を手に入れました。 ブルーステルで実戦経験を積んだフィンランド人パイロットは、このメルス(フィンランド人たちのメッサーシュミットの愛称)で、さらに戦果を上げていきます。 と、ここで少し余談ですが、自走砲(ドイツでは突撃砲といいますが)の解説です。自走砲は戦車に似ていますが別物になります。字の通り、自分で動くことの出来る大砲なのです。 そのため戦車のように動く砲塔は持っていない場合も多く、速度も遅いです。反面、普通の戦車では砲塔に入りきらない大型の大砲を乗せたりしているので、火力はとても高いです。歩兵を火力支援するために開発された兵器なので、歩兵部隊に配属され、乗っている兵士も砲兵科の兵士たちとなります。 しかしフィンランドの場合ややこしいのは、購入した突撃砲は、戦車部隊に配備され、乗っているのは機甲科の兵士たちとなります。そのため兵士たちも戦車と突撃砲の区別が分かっていなかったようです。 彼ら義勇兵は、突撃砲と共に最前線でソ連軍と戦った経験者であり、「突撃砲は歩兵の友」であることを、よく知っていたのです。 来るべき1944年夏のソ連軍の大攻勢の際に、大活躍する事を予測できる人は、この時いませんでした。 前線指揮官として卓越した手腕をもつエリック・ハインリッヒス大将を、マンネルヘイム元帥を補佐する総参謀長に、冬戦争で防御の達人と言われたユハン・ヘグルンド中将を防御施設計画本部長に、冬戦争でマンネルヘイム元帥の参謀長を務めたレンナルト・オシュ中将を、カレリア地峡軍司令官として前線勤務にしています。 一連の人事は、ポスト・マンネルヘイムの人材育成の一環でした。 政府も諸外国も、マンネルヘイムの挙動に注目しており、彼にもしもの事があれば、フィンランドの命脈は尽きる。そう思われていましたから、彼のストレス、心身の消耗は凄まじいものだったのは想像に難くありません(事実、この頃マンネルヘイムは、持病のリューマチが悪化して、何年もベッドに横になって休む事が出来なくなっています。また後日死の原因となる重度の胃潰瘍にも苦しんでいます)。 自分の死が、国の滅亡に繋がってはいけない。そう考えたマンネルヘイムは、軍の後継者の育成に力を注ぎはじめていたのです。 戦場の名手も慣れないデスクワークに四苦八苦しています。しかし彼をあえて不向きな参謀長職にしたのは、後方から戦争全体を見渡して、的確な判断ができる人材にしようと考えたからです。 マンネルヘイムの薫陶を受けて、ハインリッヒスは後日、期待以上の力量を身につけることになります。 フィンランドは小国ながら、生き延びるためにいろいろな手をうっていました。それが1943年という年でした。 では時間は、いよいよ1944年のソ連軍の大攻勢に入っていきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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