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カテゴリ:苦難の20世紀史
1944年6月19日、ソ連軍はカレリア地峡のフィンランド軍戦線を次々と突破しながら、ヴィープリ市まで数キロに迫ってきました。そこは冬戦争の時、100日かけてもたどり着けなかった場所でした。 この頃、ようやくドイツからの援軍の第一陣、23機のフォッケウルフ戦闘機と、23機のユンカース急降下爆撃機からなるクルト・クールメイ大佐率いる第3地上攻撃航空団(司令官の名前をとった「クールメイ戦隊」という呼び名の方が有名です)が到着しました。また地上部隊の援軍(歩兵1個師団、突撃砲旅団1個が送られました。ただしエストニアでソ連軍と戦っている部隊を引き抜いたため、実質的にフィンランドに到着した戦力は半分程度でした)を乗せた船も、南フィンランドの港に到着しはじめました。 北欧の短い夏は、陽がほとんど沈まない白夜です。カレリアの空はフィンランド空軍にクールメイ戦隊、敵であるソ連空軍も、1日何度も出撃して激しい戦いが繰り広げられていました。 どれだけ激しい戦闘だったかを物語るのは、前にブログで触れたことのある「無傷の撃墜王」エイノ・イルマリ・ユーティライネン准尉の総撃墜数94機の内34機が、1944年6月と7月の戦果であることからも伺い知れます。 もちろんフィンランド側の犠牲も大きく、75機撃墜でフィンランド第2位の撃墜王ハンス・ウィンド大尉(異名は「極北一の戦術家」)、35.5機撃墜の第8位ニルス・カタヤイネン曹長(あだ名は「ついてないカタヤイネン」)は負傷して戦線離脱、32.5機撃墜で第9位のラウリ・ニッシネン中尉、23機撃墜で第16位のヨルマ・サーリネン中尉らが戦死しています。 数の劣るフィンランド戦闘機隊は(ソ連軍の夏季攻勢開始時、カレリアにいたフィンランド戦闘機は、メルス(ドイツ製メッサーシュミット戦闘機)14機とブルーステル(アメリカ製バッファロー戦闘機)18機の計32機しかいませんでした)、2千機もの大軍で押し寄せてくるソ連空軍の攻撃を完全に阻止することは出来ませんでしたが、被害を少しでも減らすべく奮戦しています。 ヴィープリ市を事実上放棄することはフィンランド軍上層部の暗黙の了解でしたが、政治的な事情を考えると、タダで明け渡すのも癪です。 さらにカレリアから脱出した人々をさらに安全な場所へ避難、増援部隊の到着までの時間稼ぎの意味もあり、1個旅団約5千名を割いて、住民が避難していなくなった市の守備についていました。 対するソ連軍は6個狙撃兵師団と1個戦車旅団を中心とした10万近い兵力で、6月20日、総攻撃を開始しました。 最初は地雷などの障害物を巧みに利用したフィンラン軍がソ連軍の攻撃を撃退しましたが、フィンランド軍陣地はソ連軍の圧倒的な火力で1つ1つ潰されていき、KV重戦車70輌を前面に押し出して市街地に突入してくると、防ぎきれなくなりました。 フィンランド軍は夕刻までに市内から掃討され、わずか1日の戦闘でヴィープリ市はソ連軍の手に落ちました。上空では、フィンランド戦闘機隊が7度にわたって出撃し、この1日だけで51機ものソ連軍機を撃墜し、出撃したメルス7機全てが無事に帰還する快挙を成し遂げていましたが、地上の戦闘の助けになりませんでした。 冬戦争の時は最後まで守りぬいたフィンランド最古の都市は、ソ連軍の夏季攻勢開始からわずか11日で、あっけなく失われました。 ヴィープリ陥落は、フィンランド政府、前線の兵士たち双方に衝撃を与えました。 困難な状況にもかかわらず頑強に抵抗していたフィンランド軍兵士たちでしたが、ヴィープリ陥落から数日間の間、「戦争は負けだ!」と、絶望してソ連軍に投降する者が多くなりました。 勝ちに乗じたソ連は、スウェーデン・ストックホルムの大使館を通じて、無条件降伏を要求してきました。ヘルシンキのアメリカ大使館からも(フィンランド・アメリカ間に宣戦布告はなく、国交は維持されていました)、ソ連と講和すべきという意見が届きました。 もはや勧告を受け入れるしかないのかとリスト・リュティ大統領は、グスタフ・マンネルヘイム元帥に意見を求めました。 「大統領、気をしっかり持ってほしい。無条件降伏を受け入れれば、未来永劫我が国民は塗炭の苦しみを味わうことになる。絶対に受け入れてはならない」 「だが元帥、打開策はあるのか?」 「我が軍は健在だ。講和の機会は軍が作ってみせる。貴方は毅然と無条件降伏を拒絶してほしい」 マンネルヘイムの力強い返答は、ハッタリではありませんでした。無条件降伏を要求してきたソ連の対応に、「我が国との戦闘を早期に終結させ、ドイツとの戦争に専念したいのだ」と焦りがあることに気がついたのです。 フィンランド軍が善戦して、ソ連軍に大打撃を与えられれば、必ず譲歩してくると勝機を見いだしていました。それを聞いたリュティも落ち着きを取り戻しました。 「我が国は無条件降伏を受け入れない。我が国の自由な政治思想と、議会制民主主義、資本主義の保障を約束しない限り、講和に応じることはない」 と、リュティは場違いな程強気な返答をソ連政府に対しておこなっています。 一方、フィンランドにとって招かれざる客は、ドイツからもやってきました。リッベントロップ外相が来訪し、これからもドイツがフィンランドを軍事的に支援し、食料を供給する見返りに、連合国といかなる講和もおこなわないという共闘宣言に署名する事を求めてきたのです。 ソ連の無条件降伏要求を拒絶した以上、ドイツからの軍事支援は必要です。しかし国家の独立を守るためには、近い将来連合国側と講和して、ドイツと決別する日が来るのは避けられません。リュティは苦悩したものの、まもなく共闘宣言(リュティ・リッベントロップ協定)署名に同意しました。 彼がいかなる考えをもとに共闘宣言に署名したのか、マンネルヘイム元帥以下すべてのフィンランド国民が知り愕然とするのは、約ひと月後になります。 リュティ・リッベントロップ協定は、凄まじい副作用を引き起こしました。 今までフィンランドに同情的な態度を崩さなかったアメリカ合衆国でしたが、コーデル・ハル国務長官は激怒し、「リュティは、ナチの勝利を信じて疑わない狂信者だ。我が国はもはやフィンランドと交渉しない」と、国交断絶を通告し、ヘルシンキのアメリカ大使館を閉鎖して、ストックホルムに撤収させてしまいました(ただし、アメリカ国民の同情はまだ強かったため、フィンランドに宣戦布告はしませんでした)。 隣国のスウェーデン、連合国側ながら色々便宜を図ってくれていたイギリスもリュティを批判する声明をだし、フィンランドは国際的に孤立しました(ただし両国とも「フィンランドがドイツとの協定を破棄して講和を望むなら、協力を惜しまない」と、含みを残しています)。 6月25日、ヴィープリ占領後、補給と再編成のため小休止していたソ連軍が再び動き出しました。無条件降伏を拒否された以上、攻撃を再開するのは当然でした。 しかしこの時のソ連軍には、目に見えない不協和音が流れていました。 攻勢再開に異論はなかったものの、その後の方針を巡って主張が分かれていたのです。軍人たちの多くは、「フィンランド野戦軍の殲滅、しかる後にヘルシンキへ侵攻」を主張し、政治委員たちは「フィンランド軍殲滅にこだわる必要はない。ヘルシンキを陥し無条件降伏させれば犠牲は少なくてすむ」と言って対立したのです。 フィンランド軍参謀長エリック・ハインリッヒス大将の予測は当たったのです。 「かつて我々は自らの手で独立を果たし、自由な未来を守ると誓った。自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」 このマンネルヘイムの言葉に、フィンランド兵たちは再び戦う意義を見いだしたのです。 かくして両軍は衝突しました。決戦場はタリ=イハンタラ。小国フィンランドが独立を守れるか、大国ソ連に飲み込まれるか、運命の戦いが始まります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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