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カテゴリ:苦難の20世紀史
決戦場となったタリ=イハンタラの地理について、ちょっと触れてみたいと思います。なにせフィンランドの地理は日本で知名度低いので、地名聞いてもさっぱりだと思いますから(笑)。 カレリア地峡の北端ヴィープリ市(現在のロシア領ヴィボルグ市)から幹線道路を北上すると、レイティモ湖の南端にあるタリという街に着きます。街からタリ川の橋を渡り北上すると、ポルティンポイッカ十字路という分岐点に着きます。 現在はフィンランド・ロシア間の舗装道路は他にも整備されていますが、当時はこのヴィープリ・タリ街道以外、戦車や大部隊が通行可能な道路はありませんでした。 地形は平坦でしたが(余談ながらフィンランドには北極圏にあるラップランド以外は山がありません)、レイティモ湖やカルスティラ湖、イハンタラ湖等の湖沼と、タリ川、サイマー運河等の河川、森林に囲まれて迂回することは出来ず、守るに易く攻めるに難い地形でした。ここ以外に通れる道がないため、フィンランド軍の激しい抵抗が予想されるこの地域を、ソ連軍は真正面から突破する必要がありました。 ソ連側に一つ好材料があるとすれば、この難所さえ落してしまえば、イハンタラから先は扇状に広がっているので、どの方面にも進撃可能という点でした。逆にフィンランドにとっては本土侵攻を阻止するために、後がない背水の陣でした。 タリとイハンタラの距離はおよそ10キロメートル。その地域に14日間に及ぶ激戦が繰り広げられることになります。 タリ=イハンタラの戦いが始まる前、フィンランドを取り巻く環境はさらに激変していました。 ヴィープリ市陥落後、ソ連軍が東カレリア方面でも大規模な攻撃を開始しました(12個狙撃兵師団と4個海兵師団、14個戦車・自走砲連隊からなる第7軍30万名)。 この攻撃は東カレリア地域の奪還することと、こちらにフィンランド軍部隊を引き抜いて、カレリア地峡方面を手薄にさせる意図がありました。 しかしフィンランドの民族発祥地とも言うべきカレリア地峡を放棄しているフィンランド側は、東カレリアの領有に固執しませんでした(出来なかったと言うべきかも知れません)。 同地のフィンランド第2軍はソ連軍の攻撃開始前から、退却を始めていました(司令官は急遽ドイツから帰国したタルヴェラ中将)。 この時、ロシア系住民を除く東カレリアの住民の多くが、フィンランド領内に脱出する事を希望していました。ソ連軍が戻ってくれば反逆者として死刑もしくは強制収容所送りが待っていたからです。 退却しようとしているフィンランド軍から見れば足手まといですが、兄弟であるカレリア人たちを見捨てるわけにはいきません。 タルヴェラ中将は東カレリア住民を逃がすため、時間稼ぎの遅滞戦闘を命じました。こうして東カレリア方面のフィンランド軍約15万名の、長く苦しい退却戦が始まります(ソ連軍の思惑にのるつもりのない総司令部では、援軍を送りませんでした。タリ=イハンタラから兵力を割かせようとしたソ連軍の思惑は失敗しました)。 さらに6月22日、ソ連軍は東部戦線のドイツ軍に対する大攻勢「バクラチオン作戦」を発動しました。それは189個師団、総兵力250万名に及ぶ大攻勢で、ドイツ軍中央集団を完全に崩壊させ、ドイツ本国への侵攻を意図したものでした。 バクラチオン作戦により、ドイツにフィンランドを助ける余裕は無くなりました。しかし同時にソ連軍も冬戦争の時のように、大規模な援軍をフィンランド方面に送り込む余裕も無くなりました。フィンランドにとっては一長一短の話です。 バクラチオンにタイミングを合わせて、タリ=イハンタラの戦いが開始されます。 1944年6月25日午前6時30分、タリ全域にソ連軍の砲撃が開始され(この時撃ち込まれた砲弾は20万発以上と言われています)、レニングラード方面軍の主力を担う第21軍の進撃が開始されました。 フィンランド軍は防衛に不向きなタリの街を放棄しており(住民は避難済み。ソ連軍に利用される可能性のある建物は処分されました。ただ一カ所、タリの街から数キロ北にある巨大なタリ製粉所を破壊し損ねたのが、後々フィンランド兵に多大な出血を強いることになってしまいます)、ソ連軍はあっさりとタリの街を手に入れましたが、そこから先はフィンランド軍の頑強な抵抗に阻まれました。 道路沿いに進撃することは難しかったため、ソ連軍はレイティモ湖沿いの森林を浸透突破(水が高いところから低いところに流れるように、防衛線の薄いところを見つけて突破、敵陣を浸食していく戦術)し、ソ連軍第27戦車連隊と第397自走砲連隊が、ポルティンポイッカ十字路に進撃してきました。これでタリのフィンランド軍は孤立し、ソ連軍はイハンタラ・ユースティラどちらにも進出可能となりました。 「我が軍はポルティンポイッカを占領せり!」 ソ連軍は勝利を確信した瞬間だったでしょう。フィンランド軍の抵抗は確かに激しかったものの、ヴィープリ陥落の動揺もあるから、これでフィンランド兵は大挙降伏する、と。しかし安心するのは早すぎました。 まもなくポルティンポイッカのソ連兵たちは、見慣れぬ迷彩模様の自軍T34中戦車が自分たちに向かってくるのを見て首をかしげました。 あろうことかそのT34は、ソ連兵めがけて発砲、不意を突かれたソ連軍の戦車や自走砲は次々と炎上しました。それはフィンランド軍の重戦車大隊のT34中戦車(フィンランド名「ソトカ」)と、KV1重戦車(フィンランド名「クリミ」)と猟兵からなる部隊でした。 戦闘機や戦車を自前で開発、生産する能力を持たなかったフィンランドでは、捕獲したソ連兵器を自軍に組み入れるのは当たり前でした。ソ連軍もそれを知っていたのですが、実際に戦場で自分たちが遭遇するとは思っていなかったのです。 慌てて迎撃とようと反転したところに、今度はIII号突撃砲と猟兵部隊が側面から迫ってきました。挟撃されたソ連軍第27戦車連隊と第397自走砲連隊は、保有する戦車・自走砲の全車輛(約80輛)を失って全滅しました。 「ポルティンホイッカを奪還せり!」 今度はフィンランド軍が声高に叫ぶ番でした。 さらにフィンランド兵たちは、ポルティンホイッカで撃破した最新型のソ連軍T34/85中戦車(大型の砲塔と長砲身85ミリ砲、正面装甲90ミリの戦車です。フィンランド軍が使っているT34は、1940年型で76ミリ砲と正面装甲45ミリのものでした。大砲の口径はたった9ミリの差ですが、威力は倍近く高く、装甲も倍の厚さで別の戦車のように性能が段違いでした。そのためT34/85は従来のソトカと区別して、「ピトカソトカ(長砲身のソトカの意味)」と呼ばれました)29輛から部品をかき集めて6輛のピトカソトカを修復して、その日の内に次の戦いに投入しています(塗装は変える暇がないので、ペンキでソ連の赤い星を消してスワスチカを描いています)。 一方、浸透戦術でイハンタラ近くまで進んだソ連軍部隊も、フィンランド軍の激しい抵抗で足を止められていました。 ソ連軍を苦しめたのは、パンツァーファウスト(使い捨ての携帯用対戦車ロケット砲)を持ったフィンランド兵の戦車狩りでした。 パンツァーファウストは、射程距離が約300メートルと短いことが欠点ですが(実際には100メートル以下にならないと、中々当たらなかったようです)、女性や子どもでも簡単に扱いできるよう構造は単純で、反動も小さく(反動を逃がすため、筒の反対側から燃焼ガスを噴射するので、後ろに立っていると大火傷して死傷します)、生産性も良い上に威力も十分(約20センチの鋼板を撃ち抜くことが可能で、この時代のすべての戦車を破壊出来ました)という申し分ない兵器でした。 パンツァーファウストの性能を見たヒトラー総統が、「もはや戦車は戦略的な価値を失った。一握りの勇気とパンツァーファウストがあれば、戦車は恐れるに値せず!」と豪語したのも、誇張はあってもウソではありません。 この兵器は隠れ場所が多く待ち伏せ出来る森林の中、狩りを得意とするフィンランド人が使用したこともあって、恐るべき威力を発揮していました。 2.3本のパンツァーファウストを抱えて森に入ったフィンランド兵たちは、ソ連軍の戦車や自走砲、兵員・食糧・弾薬の輸送車を手当たり次第撃破していきました。道無き森林を戦車のキャタピラで強引に突破してきていたソ連軍にとって、補給車輛の激減は深刻なボディブローになりました。 街道は依然フィンランド軍が押さえており、森の中はトラックが通れないため、数キロ後方には豊富な弾薬や食糧があるのに、前線にそれを送ることが出来なくなってしまったのです。 最前線のソ連兵は飢えと弾薬不足に苦しみ、攻勢は停滞しました。6月27日、攻守が入れ代わり、今度はフィンランド軍が反撃に転じることになります。 ・・・ミリタリー一色の話だなぁ(苦笑)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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