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カテゴリ:苦難の20世紀史
1944年6月26日、ソ連軍の攻勢は停滞し、タリとイハンタラの大きく二つのエリアに分散していました。タリでは、川の北に陣取るフィンランド軍の陣地をソ連軍は突破できず、イハンタラ付近では、森林を突破して前進してきたソ連軍は、前方をフィンランド軍の堅陣に阻まれ、フィンランド兵に側面の補給路を脅かされて、停止を余儀なくされていました。 この時点における両軍の兵力は、フィンランド軍(カレリア地峡軍の内、第4軍団が主力)がおよそ5万名、ソ連軍(第21軍)が15万名で、ソ連軍は3倍弱の兵力であるにもかかわらず、攻めあぐねています。しかし兵力も武器も豊富なソ連軍が形勢を立て直してしまったら、フィンランド軍に勝機はなくなります。 カレリア地峡軍司令官レンナルト・オシュ中将は、反撃のチャンスは今しかないと考えました。幸いにもフィンランド軍歩兵第6師団と歩兵第11師団の2/3、ドイツからの援軍第303突撃砲旅団が到着しいて、攻勢に使える戦力は余力がありました。 タリとイハンタラにいるソ連軍は、お互いに連携が取れずに孤立しているのに対して、街道を押さえているフィンランド軍は内線の利を活かして、ソ連軍より早く兵力の移動・集結出来るのは大きな利点でした。 「イハンタラ周辺の突出部を叩く。左翼集団はビョルクマン大佐の戦闘団に、右翼集団はプロマ大佐の戦闘団に再編し、両翼からソ連軍を包囲殲滅せよ!」 オシュの構想は、ソ連軍の鋭く斬り込んできている部分(当然主力部隊がいます)を味方の堅陣で阻んで拘束して、両翼の部隊が側面から後方へ包囲網を形成して、一気に包囲殲滅しようとするものでした。 これはかつてカルタゴの名将ハンニバルが、カンナエでローマ軍を殲滅して以来の古典的戦法でした(カンナエの戦いでは、カルタゴ軍5万の内死傷者約5千だったのに対し、壊滅したローマ軍は動員兵力9万に対して、死傷者7万という凄まじい敗北でした)。カンナエの戦いは2千年以上前のものでしたが、現在の各国軍の戦術教範には必ず登場します。冬戦争の時、シーラスヴォ大佐(当時。今は中将に昇進してカレリア地峡軍第3軍団長)が、スオムッサルミでソ連軍を全滅に追いやったのも、これを応用したものです。 よく古典的というと「古くさい」と笑う人がよくいらっしゃいますが、有効だからこそ現代まで残っているのです。知識のエッセンスと同じで、知っていて損はない話はたくさんありますから(活かす機会があるかは分かりませんが)、何事も温故知新の気持ちは必要ですね。 と、話を元に戻します。 6月27日早朝、ビョルクマン戦闘団とプロマ戦闘団の攻撃が始まると、フィンランド軍の大規模な反撃を想定していなかったソ連軍は混乱し、次々に敗走していきました。さらにタリ方面でも、ドイツ・クールメイ戦隊のユンカース Ju87急降下爆撃機が、タリ川に架かる橋を爆撃してソ連軍を孤立させることに成功すると、一層大混乱に陥りました。 27日夕刻、進撃する両戦闘団の斥候兵同士は接触に成功しています。合流まであと2キロ。それでソ連軍はフィンランド軍のモッティ(包囲網)に閉じこめられることになります。 もしこの時のソ連軍が、冬戦争の時のような士気・装備劣悪な状態であれば、ソ連軍は崩壊して勝敗は決していただろうと言われています。しかしドイツとの戦争で経験を積んだソ連兵は、包囲の危機に陥っただけでは一時的に混乱はしても、潰走するほどヤワではありませんでした。奇襲から立ち直ると反撃を開始しました。 ビョルクマン戦闘団はタリ北方の製粉所付近で、多大な損害を出して足を止められてしまいました。ソ連兵が占拠した巨大な製粉所は、難攻不落の要塞と化してしまっていたのです。 タリ製粉所でフィンランド軍が足止めされている隙に、ソ連軍第30戦車旅団の大部隊が移動を完了してフィンランド軍を待ちかまえていました。 前進を続ける両戦闘団は、中央に布陣するソ連軍T34/85戦車の隊列を挟んで、お互いの姿が遠目で視認出来る距離(最接近距離は約500メートルと言われています)まで達していましたが、それが限界でした。 全防御態勢で待ちかまえるソ連軍の戦線を突破できず、さらにソ連軍の無差別砲撃(混戦地域には、味方の兵士がいようと容赦なく砲撃しました。そのためフィンランド兵だけではなく、ソ連兵も味方の攻撃で多数死傷しました)によって、兵力の劣るフィンランド軍の戦力は底をつきました。28日昼過ぎ、フィンランド軍の攻勢は停止しました。 その頃、南のタリではとうとうソ連軍が戦線を突破していました。 タリ川に架かる橋を必死に修復したソ連軍は、予備部隊数万を総動員して殺到してきたのです。 すでに消耗激しいタリ陣地のフィンランド軍に、ソ連軍の大攻勢を防ぐ力はなく、街道を制圧したソ連軍は、ポルティンポイッカ十字路を占領し、イハンタラめがけて突き進んできました。それに呼応して、イハンタラのソ連軍も一斉に反撃に転じ、今度は一転してフィンランド軍の方が包囲される危機に陥りました。 「タリは放棄。両戦闘団は攻勢を中止。全軍イハンタラの線まで退却せよ!」 勝機が去ったことを悟ったオシュ中将は迅速に命令を下しましたが(退却命令を1時間遅く出していたら、壊滅的な打撃を受けていただろうと言われています)、この時点でフィンランド側は予備兵力が尽きていたため、前線部隊は自力でソ連軍の激しい追撃を躱しながら、脱出しなくてはいけませんでした。 この退却戦がフィンランド軍にとっていかに苦しいものだったかは、数字でも表れています。 6月28日から30日までの間にフィンランド軍が出した戦死者の数は800名余りに及んでいます。タリ=イハンタラの戦い全体での戦死者数は約1100名でしたから、2日間で全戦死者数の7割弱もの犠牲を出したことになります。 ソ連軍の追撃は執拗でしたが、逃げるフィンランド軍も秩序を保って必死に抵抗したため、次第に攻勢は鈍化していきました。 この時の伝説的な逸話として、第6師団所属のヴィッレ・ヴァイサネン兵長と数名の兵士たちがタリ・イハンタラ道で、進撃してくるソ連軍戦車8輛をパンツァーファウストで巧みに擱座させて進撃路を塞ぎ、ソ連軍の進撃を停滞させたという話があります。 ヴァイサネンは28日夜に戦死しますが、師団長エイナー・ヴィフマ少将は、「勇士が1人いれば可能なことがある事を身をもって示した」と、フィンランド軍人最高位の勲章であるマンネルヘイム十字章(抜群の戦功が受勲条件のため、今回のように死後叙勲のケースが多くありました)の叙勲申請をしています。 苦しい退却戦が続くフィンランド軍でしたが、30日にようやく援軍が到着しました。第11師団の未到着部隊、約3千名がイハンタラにやってきたのです。ソ連軍の予備部隊に比べれば微々たる戦力ですが、形勢を立て直したいフィンランド軍にとっては、貴重な部隊でした。 オシュはこの部隊を、激しい戦闘の続く前線に投入する愚を犯さず(そんなことをすれば一瞬で乱戦に巻き込まれて「消滅」してしまいます)、イハンタラ前面に大急ぎで陣地を作らせ、フィンランド兵を追って無秩序に殺到してきたソ連軍に、痛烈な一撃を加えさせました。 この反撃で大きな損害を出したソ連軍は攻撃が停止しました。実際ソ連軍も2日間にわたる追撃戦で相当疲労しており、また投入可能な戦力を出し切ってしまっていました。 6月30日、ソ連軍は補給と再編成のため一端兵を引き、森の中を退却中のフィンランド軍部隊も、その隙に秩序をもってイハンタラへ脱出し、戦線を立て直す時間を得ることが出来ました。 こうしフィンランドの苦難の6月は終わりました。 両軍とも激しい殴り合いでグロッキーに近い状態でしたが、流血は終わる様子がないまま運命の7月を迎えます。 そして、いよいよタリ=イハンタラの戦いは最終局面へ、流血の夏を奇跡の夏へと変える劇的な展開を迎えます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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