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カテゴリ:苦難の20世紀史
それではタリ=イハンタラの戦い、最終局面について書きたいと思います。 1944年7月1日、一端後退したソ連軍は再びイハンタラ近くまで前進してきました。 ただし前日までの消耗が激しいフィンランド・ソ連両軍とも、小規模な戦闘と偵察活動に終始して、この日と翌2日は大きな動きは起きていません。 崖っぷちの状況から、かろうじて戦線を立て直したフィンランド軍ですが、状況は芳しくありません。 ソ連軍はいよいよ最終防衛戦であるイハンタラに接近しつつあり、無尽蔵というべき兵力と物量で攻勢が再開されれば、フィンランド軍に勝ち目は無いからです。 この時フィンランド軍の陣容は大きく変化していました。6月9日のソ連軍の大攻勢開始以来、常に最前線で戦い続けていた戦車師団が、戦力回復と休養のため戦線を離れました。ソトカ(ソ連製T34戦車)もIII号突撃砲も、6月末の退却戦で味方の撤退支援のために最後まで残って奮戦しており、激しく消耗していました。 カレリア地峡軍は唯一の機動戦力を失ってしまった訳ですが、代わりに重砲部隊がイハンタラに展開完了しています。総砲門数250もの火砲は、フィンランド侵攻に1万門もの火砲を投入したソ連軍に比べれば微々たる数ですが、フィンランド軍が保有する火砲の半分に当たります。 大砲は威力は大きいものの、戦車のように機動力がないため、戦闘によっては役に立たないことがあるのが問題です。逆に火力を活かせる戦闘になれば、ソ連軍の攻勢を粉砕することが出来ます。重砲を活かせる展開に持ち込めるかが勝負でした。 そして勝利の女神は、フィンランドに微笑みました。 7月2日夕刻、フィンランド軍情報部の諜報班(暗号解読を担当)が、ソ連軍の通信を傍受しました。 「第30戦車旅団から第21軍司令部へ。攻撃命令を受領せり。我が隊は命令どおり、7月3日午前4時にイハンタラへ総攻撃を敢行せんとす・・・」 それは通信発信元の第30戦車旅団だけでなく、他の部隊の攻撃ルート、時間も含めたソ連軍の攻撃計画の全文でした。第30戦車旅団の通信士は、3度にわたって攻撃命令受領の返信を上級司令部である第21軍司令部におこなっています。 暗号とはえ内容が漏洩する危険性が高まるため、長文の通信は控えるべきなのに(フィンランドは日本陸軍の協力で、ソ連の暗号はかなり正確に解読出来るようになっていました。もっとも暗号が読めていることは国家レベルの機密だったため、近年まで知られておらず、ソ連は国が消滅するまで気がついていませんでした)、なぜ3度も通信を送ったのかは今も不明です。 7月になってから暗号表を変更していたため、それで大丈夫と油断していたのかも知れません(暗号表変更により、若干時間がかかったもののすぐに解読成功しています。これは暗号システムの制約で、大きく変更すると味方も解読できなくなってしまうため、細部の変更だけにする事が多いためです)。 ソ連軍の前線部隊も総攻撃に備えて動きを活発にしており、偵察から戻ってきたフィンランド兵も、「やつら、何か良からぬ事を企んでいる」と、攻撃の兆候を伝えてきていました。 暗号と偵察情報、双方の報告を検証したカレリア地峡軍司令官レンナルト・オシュ中将は、「これは神が我々に与えてくれた最後のチャンスだ。全力を挙げてソ連軍の攻勢を撃退する」と、対策を練りはじめました。ソ連軍の総攻撃開始まであと7時間半、フィンランドにとって最後の踏ん張りどころでした。 この時、後がなかったのはソ連軍も同様でした。 本来の計画では、ソ連は6月中にフィンランドを屈服させ、フィンランド侵攻に投入していた部隊を、すべてドイツとの戦いに振り向ける予定でした。 ヴィープリ攻略まではほぼ予定どおりに展開したものの、フィンランド軍主力部隊殲滅は失敗し、さらに無条件降伏を拒絶されてしまったため、ずるずると戦い続ける羽目になってしまったのです。ソ連にとってこの展開は予想外でした。 レニングラード方面軍司令官レオニード・ゴヴォロフ元帥と、第21軍司令官ドミトリー・グーセフ中将は、スターリン書記長から叱責され、一刻も早くフィンランドを屈服させるよう厳命されていました。もしかしたらその焦りが、不用意な暗号長文を発信する原因となったのかも知れません。 7月3日午前3時58分、総攻撃のためソ連軍の戦車が一斉にエンジンを吹かしていた頃、その轟音に紛れるように最初の刺客が舞い降りました。ドイツ・クールメイ戦隊の40機とフィンランド空軍爆撃隊40機の計80機からなる大編隊でした。 爆撃は、今まさに進撃を開始しようとしていたソ連軍の先頭集団に集中しておこなわれました。 先手を打たれたソ連軍は混乱し隊列は大きく乱れました。しかし80機の爆撃程度では(フィンランド空軍始まって以来の最大規模の攻撃でしたが)、10万近いソ連軍の攻勢を挫くには力不足でした。ソ連軍は混乱したものの、予定どおりの時刻に進撃を開始しました。 ただし爆撃で被害が出た部隊続出で、整然とした進撃は行えず前進可能な将兵たちによる雑然とした前進になりました。それはすぐにソ連軍に致命的な失敗をもたらすことになります。 同時刻、ソ連軍の攻撃準備前砲撃がフィンランド軍の前哨陣地を襲いました。進撃に先立ち、邪魔な敵陣地を潰しておくのが目的です。 しかし砲弾が落ちたのは、ほとんどが無人の陣地でした。ソ連軍の攻撃計画内容から、オシュ中将は攻撃準備前砲撃を受ければ全滅するであろう前哨陣地の大半から兵力を引き下げを命じていたからです。 進撃してきたソ連軍部隊は、フィンランド軍の抵抗を受けることなく、森を抜けイハンタラ近郊にある広々と開けた農業開拓地に密集隊形で進出しました。イハンタラの街は目の前です。 開拓地の半ばにさしかかった頃、フィンランド軍の大小250門に及ぶ火砲が一斉に火を噴きました。この時フィンランド軍砲兵には、「弾の残りは気にするな。撃ち尽くすつもりで撃て!」という、戦争中唯一の贅沢な命令が下されていました。 貧乏小国フィンランドでは、これまで1日に使う砲弾の数は制限されていました。今までの戦闘で砲兵隊の活動が目立たないのは、弾が無くて撃てなかったのです(戦後、ソ連軍の将校が「フィンランド軍の砲撃はいつも正確で恐ろしかった。しかし数発しか撃ってこないのが不思議だった」と発言しています)。 普段ならすぐに止むはずのフィンランド軍の砲撃はいつになっても止まらず、ソ連軍部隊は秒単位で大損害を出していました。なにせ遮るもののない開拓地に、密集隊形の戦車と歩兵、さらに指揮系統は回復していない状態、これだけの悪条件が重なっていては、まともに戦うことなど出来ようはずがありません。 4時55分頃、ソ連軍の先頭集団は壊滅状態となり敗走が始まりました。指揮系統が崩壊しているソ連軍に、敵前を整然と後退する芸当は望むべくもなく、フィンランド軍の砲弾に追われ、まもなく後続部隊を巻き込んで全面潰走状態に陥りました。 どうにか砲撃圏外に逃れたソ連兵たちも、秩序を取り戻すことは出来ませんでした。大急ぎで基地に戻って爆弾を搭載して再出撃してきたクールメイ戦隊の急降下爆撃機が、襲いかかってきたのです。 もはや指揮官の制止の声に耳を貸さず、ソ連兵たちは、戦車を乗り捨て武器を捨てて南へ向かって敗走していきました。 こうしてソ連軍の乾坤一擲の総攻撃はわずか1時間で失敗しました。そしてタリ=イハンタラの戦いの勝敗は事実上決しました。 この後ソ連軍は部隊を立て直して戦闘は再開されましたが、ソ連兵たちはフィンランド軍の砲撃を受けるとすぐにパニックに陥り、まともに戦えなくなりました。7月3日の戦闘は、ソ連兵の士気を完全に打ち砕いてしまったのです。これではいかに兵力が多くても勝てません。 7月9日、ソ連軍第21軍司令官ドミトリー・グーセフ中将は、全軍にイハンタラ前面から、ポルティンホイッカまで後退するよう命じました。もはや戦線突破の望みはなく、疲労し士気も下がりきった自軍では戦闘継続は不可能と判断したのです。 こうしてスカンジナビア半島で起きた有史上最大規模の会戦、タリ=イハンタラの戦いは、フィンランド軍の奇跡的な大勝利で終わりました。 フィンランド軍はタリ=イハンタラの戦いで、戦死者約1100名、負傷者約7千名を出しました。 対するソ連軍は、戦死者4千~5500名、負傷者1万3千~2万名、戦車・自走砲300輛、航空機280機を失ったと推定されています(現在に至るまで、タリ=イハンタラの被害についてロシアは資料を公開していません。公開要求も無視しています。そのため数は推定です)。 この後もフィンランドとソ連の戦闘は続きますが、流れは逆転します。次回はタリ=イハンタラ後の経緯を書いてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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