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カテゴリ:苦難の20世紀史
タリ=イハンタラ決戦後の、両国の戦闘をなるべく簡単にまとめてみたいと思います。 敗れたとはいえまだ大軍を擁しているソ連軍ですが、不思議なことにこの後フィンランドでの戦闘に全く勝てなくなります。 1944年7月3日、ソ連軍はヴィープリ湾の島嶼地域に上陸作戦をおこなっています。 ソ連軍はいくつかの無人島を占領したものの、フィンランド本土への上陸はドイツ軍(協定でこの地域はドイツ軍が守っていました)の反撃で敗退しています。 続いてソ連軍は、タリ=イハンタラから東に約40キロ離れたヴォサルミ地区に攻撃を開始しました。 ヴォサルミはヴォクシ川の北に位置する街で、やや遠回りながらもイハンタラへ通じる街道が整備されおり、ここを新たな進撃拠点にしようとしたのです。ソ連軍はタリ=イハンタラの戦いに参加せず、戦意も兵力も十分な第23軍約10万名を投入しました。 7月4日、ヴォクシ川を大軍で力ずくで渡河したソ連軍でしたが、ヴォサルミ防衛を担当していたのは、冬戦争スオムッサルミの戦いでソ連軍を壊滅させた名将シーラスヴォ中将指揮の第3軍約3万名でした。シーラスヴォは寡兵よく善戦して、ソ連軍の進撃は停滞しました。 そして7月9日、イハンタラから後退して休養と再編成をおこなっていた戦車師団がヴォサルミに到着すると、ソ連軍は次第に劣勢になり、7月18日、とうとうヴォクシ川に追い落とされ敗退しました(フィンランド軍死傷者は約6千名、ソ連軍は1万6千名を失いました)。 ヴォサルミの戦いに敗れると、ソ連軍レニングラード方面軍の各部隊はカレリア地峡を離れ、南へ向かって移動していくのを、フィンランド軍偵察機と、ソ連軍占領地域に残って偵察活動をしていたフィンランド軍情報部偵察部隊の兵士たちは確認しました。 ミッケリ市にあるフィンランド軍総司令部でも、暗号情報からレニングラード方面軍の大半が、ドイツ侵攻作戦バクラチオンに合流するよう命令を受けたことが判明しました。 この時ソ連はフィンランドに対する攻勢の意欲を無くしていました。そしてようやくフィンランドとの講和交渉に応じる事になります。その話は次のブログで詳しく書いていきたいと思います。 こうして講和交渉は開始されましたが、まだ戦争は終わっていません。戦場では両軍の激しい戦闘は続いています。 ヴォサルミの戦いが終わる直前の7月半ば、イハンタラのフィンランド軍は攻勢に転じました。 7月9日以降もイハンタラには続々と増援部隊が到着しており、総兵力26万名近くまで集結していました。 フィンランド兵はタリ=イハンタラの戦勝で士気も高く、戦車や火力では勝っているものの、士気が低迷したままのソ連軍とでは、戦意に雲泥の差がありました。 フィンランド軍の攻撃に対して、ソ連軍はポルティンホイッカ十字路を守りきれず、タリ川を渡って敗退しました。 逃げるソ連軍を追ってフィンランド軍もタリ川を渡りました。ソ連軍はヴィープリ市まで退却し、フィンランド軍はタリの街を奪還、ヴィープリ北方で孤立しながらも、約1ヶ月間ソ連軍と戦い続けていたフィンランド軍第3旅団(青の旅団という異名を持つ精鋭部隊でした)と合流して、攻勢を終了しました。 余談ですが、この第3旅団の戦いは、精鋭部隊の名に恥じないものでタリ=イハンタラの戦いの勝利に、戦略的な貢献をしています。 当初ソ連軍は自軍側面を脅かす位置にいるこの部隊を一撃で粉砕するつもりでしたが、第3旅団はソ連軍の攻勢を撃退し、逆にヴィープリ市を奪還する構えを見せました。その勢いに惑わされたソ連軍は、約5千名しかいなかったこの部隊を2個師団(約3万名)位の戦力と誤認し、8万近い兵力を割いて警戒していました。不用意に大兵力を分散させてしまったことが、タリ=イハンタラの戦い中盤以降、ソ連軍の攻撃力不足、敗退の一因になったのです。 そして8月半ば、ソ連軍上層部を震撼させる最後の敗報が届きました。イロマンティの戦い(7月20日~8月9日)です。 東カレリア方面から進撃中のソ連軍第7軍は、バクラチオンへの合流命令は出ておらず、フィンランド領内へ向けて侵攻が続いていました。 そして7月末、ソ連軍第176師団と第289師団の約2万5千は、冬戦争後に定められた両国の国境線を越え、フィンランド領内に侵入してきました。 ソ連軍をフィンランド領内に踏み込ませていることは講和交渉に影響します。東カレリア方面軍司令官タルヴェラ中将は反撃を命じ、同地のフィンランド軍2個連隊約6千名は、ソ連軍にモッティ(包囲)戦闘を挑みました。 森林と湖に囲まれた隘路に分散したソ連兵は、冬戦争スオムッサルミの戦いと同様、連携が取れず孤立し、フィンランド兵の包囲と襲撃で、約3千名の死傷者を出し敗走しました。 イロマンティの戦いは、第2次世界大戦では珍しい歩兵対歩兵の戦闘でした(大砲不足のフィンランド軍は大きな砲火力をもっておらず、対するソ連軍は、交通事情の悪さから戦車や大砲を後方に置き去りにして、歩兵のみで追撃してきたためです)。 いかに地の利がフィンランド側にあるとはいえ、ソ連軍も4倍以上の兵力差があったのに、歩兵同士の戦闘では、ソ連歩兵はフィンランド歩兵に劣るという事実に、ソ連軍首脳部の衝撃は大きかったと言われています。 独裁者スターリンは、「1940年に定められたソ連・フィンランド国境まで撤退せよ」と命令を下し、事実上両国の陸上戦闘は集結しました(空では停戦発効の日である9月4日まで戦闘が続きました)。 9月2日、フィンランド政府はドイツと断交し、前線部隊に2日後にソ連軍との全ての戦闘を停止するよう命令しました。 同日、フィンランド軍と共に戦ったドイツ軍部隊はフィンランドを去りました。 援軍に来たドイツ軍の中で、特にクールメイ戦隊の活躍がめざましかったのは、司令官クルト・クールメイ大佐の影響でした。 クールメイ戦隊がフィンランドにやってきたのは6月19日でした。到着早々ヴィープリ陥落(6月21日)で意気消沈して肩を落として歩くフィンランド兵を見て、クールメイは危機感を抱きました。戦線崩壊の気配を感じたのです。 彼らがフィンランドにやってきたのは、上官の命令であって、フィンランドに好意を持っていた訳ではありません。 クールメイは他国の戦闘で部下を無駄死にさせるのはまっぴらでしたし、血迷ったフィンランド兵がソ連に寝返って自分たちを攻撃してくる事も考え、非常時は部下たちを脱出させる算段を考えはじめました。 しかし数日後、マンネルヘイム元帥の演説を聞いたフィンランド兵たちが、再び戦意を取り戻したのを見てクールメイは目を白黒させました。 「君たちの元帥は何を言ったのだ?」通訳のフィンランド軍連絡士官に尋ねました。そし拙ブログ「継続戦争8」にあるマンネルヘイムの演説の話を知った彼は、感銘を受けた様子で何度も頷いていたといいます。 「我々がこの国にやってきたのは、邪悪なコミュニスト(共産主義者の意味)たちの魔手から、友人を助けるためである。困難な任務であるが、諸君であれば達成できると確信している。栄光あるドイツ空軍の名誉にかけて、フィンランドの自由を守れ!」 今度は部下たちが目を白黒させる番でしたが、司令官の熱気はやがてクールメイ戦隊の将兵を感化させていき、フィンランド兵たちが舌を巻くほどの勇猛果敢な戦いぶりをしていくことになります。 そのクールメイ戦隊は、フィンランド兵たちに惜しまれながら去っていきました。 戦後西ドイツ空軍の司令官となったクールメイの所には、フィンランドからの感謝の手紙が生涯絶えることはなかったと伝えられています(本人も、「フィンランドでの任務は、人生で誇りとするところ」と語っていたそうです。彼は1993年、ドイツのボンで死去しています)。 そして9月4日、フィンランドとソ連両国の正式な停戦が成立しました。 6月9日のソ連軍の大攻勢開始以来、フィンランド軍は、戦死者9352名、負傷者約3万名を出し、戦車・突撃砲35輌、戦闘機30機、爆撃機20機を失いました。 一方のソ連軍は公式発表によると、戦死者2万6698名、負傷者8万4462名と、戦車・自走砲294輌、火砲489門、航空機311機を失ったとしています。 しかし冬戦争のときと同様、この数字は信頼できるものではありません。例えば、前のブログでも書きましたが、タリ=イハンタラの戦いの死傷者・損害は上の数字に含まれていません。また東カレリアから進撃してきたソ連第7軍の損害も含まれていません。 そのため、死傷者と損害の数は公式発表の少なくとも倍になるだろうと、フィンランドと西側諸国は推定しています。 この話の傍証としては、大攻勢開始時、ソ連軍は約2千機もの航空機を投入していますが、講和成立後、ドイツとの戦い投入する際、「稼働機は約800機が上限」と総司令部に報告しています。 公式発表の損失が311機ですから、残りの約900機はどこに行ってしまったのでしょうか? 故障や戦闘で損傷して修理が必要な機が半分あったとしても、約450機の所在が不明です。もしフィンランドと西側諸国の試算どおり、実際にはソ連側の公式発表の約2倍の損害を出していて、修理中の機が半分程度あったと仮定すると、辻褄は合うような気がします。 さて、フィンランドとソ連、両国の戦闘の話はこれでようやく終わります。次回は話は前後しますが、講和交渉について書いていきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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