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カテゴリ:苦難の20世紀史
講和に向けた話に入っていきます。 1944年7月19日、ヴォサルミの戦いがフィンランド軍の勝利で終わると、ソ連軍部隊はバクラチオン作戦に合流するため、次々にカレリア地峡を離れていきました。 その報告に、講和の機会がきたと判断したフィンランド政府は、7月21日、隣国スウェーデンを介してソ連に対して分離講和を打診しました。 ソ連側の回答は7月26日に届き、「2月に提示した条件のもと、ドイツとの断交と、ドイツ軍の駆逐を絶対条件として了承するなら、交渉に応じる用意がある」というものでした。 先月の無条件降伏要求が撤回されたことに、リスト・リュティ大統領は安堵しました。ソ連の要求は厳しい条件でしたが、戦争に疲れ切ったフィンランドにとっては、許容しなくてはならない最低限の忍耐でした。 ソ連はなぜフィンランド侵攻を諦めたのかですが、それは米英による北フランス、ノルマンディー上陸後の西部戦線の戦況の推移に、ソ連の独裁者スターリンが気を揉みはじめたからです。 この頃西部戦線は、6月4日にイタリアの首都ローマが陥落し、ドイツ軍は北イタリアへと後退し、ノルマンディーの米英軍は6週間近い死闘の末、7月9日に英軍はパリへの玄関口、交通の要衝カーン市を占領、米軍も7月26日にノルマンディー半島南のサン・ローでドイツ軍の防衛線を突破し、北フランス解放の足がかりを作っていました。 米英軍は遠からずパリを解放し、ドイツ本国へと進撃してくるのは明白でした。 ドイツ降伏前に、東ヨーロッパを掌中におさめたいスターリンは、犠牲が多い上に、時間がかかりすぎるフィンランド侵攻を諦め、本来の敵であるドイツとの戦闘に集中する事を決意したのです。 「無条件降伏を要求して来たのは、フィンランドとの戦争を早く終わらせようと焦っている。タイムオーバーになれば、ソ連は妥協してくる」と考えたグスタフ・マンネルヘイム元帥の予測は、ソ連の事情を正確に洞察していたのです。 ソ連からの回答が届いた翌27日、リュティ大統領はミッケリ市のフィンランド軍司令部にやってきました。これがマンネルヘイムとリュティの最後の会談でした。 「元帥、ソ連が交渉に応じてきた。これも将兵の善戦のおかげだ。心から礼を述べたい。我が国は連合国と講和する。この機会を逃せば、国民の未来は、永遠に彼らによって奪われてしまうだろう」 大統領の言葉に頷きながらも、マンネルヘイムには懸念を抱いていることがありました。それはドイツとの間で結んだリュティ・リッベントロップ協定でした。 この協定を破棄しない限り連合国は講和に応じることはありませんし、1月前に結んだばかりの協定をあっさり破棄することは、フィンランドの対外的な信用を失いかねません。頭の痛い問題でした。 余談ながら、マンネルヘイムはこの協定を結んだリュティを批判していません。彼は冷静に、ドイツの支援を受けなければ、ソ連軍の攻勢を挫く事が出来ないことを理解していたからです。 むしろマンネルヘイムは、今までドイツに傾倒していたにも関わらず、協定を結んだことを声高に批判するフィンランド議会の親独派の政治家たちを、「風向きが変わったとたん、節操なくソ連にすり寄るのか」と不快感を抱いていたと言われています。 マンネルヘイムの懸念に、リュティは笑ってこう答えています。 「心配ない元帥。あの協定は議会の承認を得ずに、私が勝手に個人としてサインしたという形式にしてある。私はナチスとの交渉の全責任を取って辞任する。元帥には後任の大統領になってもらいたい」 その言葉にマンネルヘイムも、同席していた参謀長エリック・ハインリッヒス大将と補給総監アクセル・アイロ大将も絶句して言葉がなかったと言います。これは国家の命運をかけたペテンでした。 リュティがこの方法を思いついたのは、ドイツのリッベントロップ外相から共闘宣言の署名を要求してくることが分かった時だったようです。彼はすぐに法律関係のスタッフを呼んで、考えを打ち明けました。 スタッフたちは「詭弁ですが、個人の署名は国家の代表としての署名とは異なるから、国家としての承認ではない。従って大統領が替われば無効と主張することは可能です。ですがそんなことをすれば大統領、貴方の政治生命は終わりですよ」と反対しました。しかしリュティにとって、自分の政治生命などは二の次でした。 続いて議会の重鎮たちを呼んでこの企てを話しました。当然ながら全員が反対しました。 もし大統領の計画を認めれば、ドイツから援助を引き出しつつ、頃合いを見て手を切り、ソ連と講和することが出来るかもしれません。しかしその代償にリュティは「ナチスに傾倒する戦争犯罪人」として、最悪の場合、死が待っていることに気がついたからです。 つまり個人としてのサインをドイツと交わす事は、自らの死刑執行書にサインするのと同じ意味なのです。 フィンランド国民のほとんどが、リュティ(マンネルヘイムもですが)が、ナチズムに共感しておらず、ドイツから距離をとりたがっている事を知っていました。 議会からの強硬な反対に、リュティは2週間ほど寝込んでいます(もちろん反対されたからだけでなく、自分の運命に対する心労もあったと思います)。 翻意を促す議員たちに、「他に良案があるのか? こうしている間にも、我が軍の将兵たちは国を守って戦い、血を流しているのだ」そう問われると、誰も答えられる者はいませんでした。 渋々ながら議員たちは大統領の計画を認めました。そして議員たちは協定が結ばれると、体裁を整えるためにリュティを非難し、この協定がフィンランド国民の同意を得ていないものであることを盛んにアピールしていたのです。 それがリュティ・リッベントロップ協定の裏側にあった事情でした。 「大統領、この後どうするつもりなのだ。・・・ソ連は絶対に貴方の死刑を要求してくるぞ」 すべての事情を知ったマンネルヘイムの言葉は悲痛でした。事実、ソ連はリュティを「ナチスの協力者、世界平和の敵」として、死刑を要求してきます。彼はフィンランドで唯一、戦犯として裁かれることになります。 対するリュティの言葉は、達観した言葉でした。 「私の大統領としての責務は、官邸の中でも獄中であっても変わることはない。私は自分の運命を受け入れればよいだけだ。元帥は大統領となってこの国の未来を守ってほしい。国民は絶望的な状況の中でも、元帥を信じて決して諦めなかった。貴方が確固たる方針を示せば、国民は皆従うだろう」 リュティの言葉に、マンネルヘイムは頷く事しかできませんでした。こうして2人の最後の会談は終わりました。 8月1日、リュティはドイツとの協定の責任をとる形で大統領を辞し、後任にマンネルヘイム元帥を指名しました。8月4日、議会の承認を受けたマンネルヘイムは、第6代フィンランド大統領に就任しました(ただし彼は、選挙によらない自身の大統領の地位を憚って、「摂政」という呼び名を使っています)。 大統領となったマンネルヘイムは、リュティ・リッベントロップ協定を前記の理由により否定し、連合国側との即時講和を表明しました。 個人のサイン云々という話を、アメリカとソ連は不審の目で見ましたが、フィンランドを戦争から抜け出させようと、今まで便宜を図っていたスウェーデンとイギリスは、待ってましたとばかりにフィンランドに説明に話を合わせたため、米ソ両国も引きずられる形で納得することになります。 こうしてフィンランドは講和交渉の入り口にたどり着きました。次回は両国の講和交渉に入りたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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