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2012.06.17
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カテゴリ:旅行・史跡など

 近影5

さて小諸市にある小諸城趾、懐古園見学のお話です。

小諸城ですが、築城は室町時代、小諸地方を支配していた大井氏によってと言われています(その頃は鍋蓋城と言います)。ただその頃の小諸城は今よりかなり規模の小さい城だったようです。

小諸を含む佐久地方の歴史が大きく動いたのは、戦国時代、甲斐(今の山梨県)の武田晴信(信玄)による佐久侵攻からです。

信濃(今の長野県)、諏訪方面を主攻勢軸として領土拡大を図ろうとしていた武田氏にとって、佐久は側面を守る位置にあり、加えて信濃の国人衆と関東諸勢力(信濃の国人衆は、関東管領家とその家臣団と、縁戚関係などで繋がっている家が多くありました)との連絡線を遮断する戦略的要衝でした。

佐久・小諸地方を掌握した信玄は、小諸を東信濃経営の重要拠点と位置づけ、山本勘助に鍋蓋城の縄張りの大改修を命じたと言われています。

ここでいつものように少し脱線です。

ドラマや小説で武田信玄の名軍師として有名な山本勘助ですが、かつて歴史学では存在を疑問視されていました。

なぜかと言いますと、山本勘助の名は、江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』以外で登場せず、他の一級の史料には登場しないためです。現在では再評価の動きが進んでいますが、『甲陽軍鑑』は史料的価値が低いと見なされていたのです。

また講談などに出てくる勘助の姿は、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由といった、いかにも架空の鬼謀の軍師というものでしたから(ちなみに『甲陽軍鑑』では、勘助は軍師だったとはひと言も書かれていません)、架空の人物という印象が強くなっていったのです。

しかし戦後、昭和40年代以降に、新たに発見された戦国時代の古文書から「山本菅助」という名前が記されたものがいくつも発見されました。中には武田信玄の書状も含まれており、武田家に山本菅助と言う足軽大将がいたことは間違いないようです。

現在では、その山本菅助が山本勘助だったのではないかと考えられており、少なくとも架空の人物ではないと考えられています。

とまぁ話を元に戻します。

山本勘助が実際に縄張りをしたかは定かではありませんが、武田氏の統治時代に鍋蓋城は隣接して築城されていた乙女坂城(現在の小諸城趾の二の丸付近)を取り込んで大改築され、小諸城として誕生しました。

小諸城は武田氏滅亡後は後北条氏の占領を経た後、徳川氏の領土となり、さらに豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下を統一すると、仙石秀久が5万石の大名となって小諸を領します。

現在の小諸城の写真を見ると、大きな石垣が見て取れますが、これは仙石秀久の時代に改築されたものです(武田氏の時代は、まだ石垣が普及しておらず、土の城でした) 

縄張りは武田流の築城形式を見ることが出来ますので、秀久の改修は石垣や大手門、天守閣の建築と言った城の安土桃山時代の軍事技術に即した「近代化」に限定したものだったのだと思われます。

江戸時代になると、小諸は北国街道の要衝として幕府から重要視され、譜代大名が配され、明治維新まで至ります。

小諸城の大きな特徴は、城下町より低い位置に城があるという点です。そのため別名穴城ともいいます。

山城ほどではなくても、本来城は防衛上、城下町より高い位置に築かれるのが普通です。なのにどうして低い場所に築かれたのか、その理由を地図を見ながら推測(私の空想とも言う)してみたいと思います。

城は千曲川にほど近い深い崖の上に築かれています。

この深い崖と千曲川が小諸城の西側の防壁となっており、西側から攻撃するのはほぼ不可能です。城の南側と北側も谷間となっており、さらに大きな空堀も作られており、攻撃可能ルートが東側からしかありません。

城下町より低い位置にあるとはいっても、防御側は敵の攻撃地点を限定出来るのです。

小諸城を占領するのに、攻撃側は側面に回り込むことが難しいため、防御側の拠点を一つ一つ力攻めしていかないといけません。低い場所にあるにも関わらず、攻撃を仕掛けるのが難しい天然の要害となっている。というのが、地図上の分析(私の空想とも言う)です。

で、ここでようやく現地を歩いたお話です。

DSCF0162s.jpg

・・・えー、懐古園の入り口近くにあるお店のベンチにいらっしゃった猫です。天気はイマイチでしたが、気持ちよさそうに寝ていました。

城じゃねーだろと言うことで(汗)、次からが小諸城趾の写真です。

 


DSCF0168s.jpg

この写真は、懐古園の入り口にあたる三の門のところです。
写真左手が低くなっているように見えると思いますが、事実低くなっています。

 

DSCF0169s.jpg

こちらの写真を見ればよくわかりますね。

三の門に近づけば近づくほど坂を下るようになっています。これは小諸城が地形的に低い位置にあることを物語っていますが、一方でその弱点といえる部分を巧みに防御に利用しているなとも思いました。

しなの鉄道の線路の向こうにある大手門辺りの高さからすると、明らかに三の門は低い位置にあります。

しかし大手門付近を突破してきた敵がこの門に向かってくると、下り坂でいつの間にか門より低い位置に来てしまう訳です。

俯瞰図で見れば市街地より低い位置にある小諸城ですが、個々のパーツを見れば、攻撃側は他の城と同様、自分たちの身を低い位置に晒さなくてはいけないのです。

もし城下町より低い城だと侮って攻めた者がいたら、かなり手痛い目にあったでしょうね。

 

DSCF0176s.jpg

この立て札を見て、目が丸くなりました。

かなり立派な石垣だと思っていましたが、これは昭和59(1984)年に、当時より大きな石で復元されたものだと書いてあります。

うーん、復元してくれたのはありがたいですが、当時より大きな石ではなぁ。「仙石秀久は凄い石垣作ったな」と勘違いする人もいるかもしれませんね。まぁ、きちんと立て札を表示していただいていますから、間違える人は少ないかな? 

DSCF0182s.jpg

これは二の門跡近くから三の門を撮った一枚です。写真だと分かり難いのですが通路途中まで緩やかな下り坂でその後緩やかな上り坂です。

攻撃側はこの横に展開できない通路を、正面の南丸、二の丸側に側面からの攻撃に身を晒しながら前進するしかありません。

二の門は二層構造の頑丈な作りだったそうで、攻撃側の動きを封じ込めて、三方向からの攻撃で出血を強いるキルゾーンを形成していたようです。

次回に続きます。






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Last updated  2014.04.15 20:30:51
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