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2012.06.19
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カテゴリ:旅行・史跡など

懐古園見学の続きです。 

 

  DSCF0188s.jpg

これは二の丸跡です。
関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠真田昌幸・信繁(幸村のことです。本名は信繁なのですが、講談で出てきた「幸村」の名の方が定着してしまいました)に破れ、逗留した場所です。

この上田攻め失敗の失態により、秀忠は肝心の関ヶ原の戦いに遅参するという事になったのは有名ですね。

 DSCF0200s.jpg

二の丸跡の上から城の本丸方向を撮った一枚です。写真左手の石垣側が南丸で、城の武器庫でもありました。右手はよく見えませんが、北丸があり隠居所だったようです。

 DSCF0218s.jpg

南丸から南側の空堀を撮ってみました。あちらには小諸市動物園があります。
堀は深く、攻撃側が二の門方面を攻めあぐねて迂回しようとしても、高低差がかなりあるため、側面からの攻撃は難しいでしょうね。

DSCF0242s.jpg 

二の丸跡を出て、本丸方向に向かうと黒門橋が見えてきました。

ここからが小諸城の最終防衛ラインとなります。

この橋は小諸城の特徴の1つである深くて大きい空堀の上に架けられています。戦時の際、この橋を落とせば、攻城軍の本丸への攻撃は停滞を余儀なくされます。

DSCF0250s.jpg

黒門橋の上から空堀を撮ってみました。写真だとあまり伝わってこないのですが、かなり深い堀です。

ここを降りて攻め上るのは非常に困難だと思います。

 DSCF0266s.jpg

黒門橋を渡ると大きな石垣があります。それが本丸です。でその本丸跡には懐古神社があります。

二の丸や南丸もそうですが、建物が残っていないのは少し残念です。でも石垣などの遺構から建物の規模を推測することは出来ますから、あとは想像力(妄想力?)の勝負です(笑)。

 DSCF0294s.jpg

本丸石垣上から撮った一枚です。
登ってみると意外に高く感じてヒヤッとしました。うーん、前日に黒斑山登った時は怖く感じなかったのに、不思議です。

DSCF0312s.jpg
 

城の南にある富士見台です。
残念ながら富士山見えませんでした(涙)。

DSCF0337s.jpg 

小諸城の北西にある水の手不明御門跡(みずのてあかずのごもんあと)に向かう途中に撮った北側の堀にあたる北谷です。
かなり深い垂直の崖になっています。ここを降りて攻撃というのは難しそうです。

DSCF0353s.jpg

水の手不明御門跡から撮った千曲川です。
今は絶景の展望台として楽しめますが、かつては小諸城の搦め手の守りを担っていました。

あとは近世以前、人や物の移動の中心は舟だったことを考えると、千曲川の水運の監視所としての機能もあったのではないかと思います。

 DSCF0354s.jpg

小諸城というと忘れてはいけないのが、島崎藤村です。
「小諸なる古城のほとり」で始まる有名な詩の歌碑です。

DSCF0360s.jpg

懐古園で最後に立ち寄ったのは、南谷の向こうにある小諸市動物園です。
動物園を見て回ったのはそれこそ何十年ぶりですかねぇ。仲間の鳥類を含めて色々いました。

DSCF0007s.jpg

こちらはしなの鉄道の向こうにある大手門です。ここを見たのは小諸に到着した5月23日だったので、天気はよかったです。

今は門しかありませんが、ここもかつては小諸城の一角でした。門の周囲の構造はどうなっていたんでしょうね。資料がないのが残念です。

 

懐古園というより小諸城趾の見て回った私の感想は、典型的な付城(出城)だなという点です。

もし小諸周辺のみを統治する領主であれば、これほどの重防御の城は必要ありません。なぜなら侵攻軍を阻止できず、籠城やむなしなれば、その瞬間敗北が決定的だからです。

籠城戦とは、本来援軍が来ることを前提に兵力を温存し、敵に出血を強い、時間を稼ぐことが目的なのです。

ですから小領主であるならば、大井氏が築城した鍋蓋城、乙女坂城レベルで十分なのです。

小諸城は二重三重に強固な防衛線を構築されており、その必要性があったのは遠方に本拠地を持つ武田氏だったからです。

まず想定される小諸城の戦いは、北信濃や上野の豪族や諸勢力の侵攻だったでしょう。

小諸衆は、甲斐の武田信玄に急報を伝える一方籠城し、甲斐もしくは諏訪方面から後詰(援軍)が到着するまでの間持久戦に徹する。

そして援軍到着により、敵は決戦を強いられるか、もしくは自領への撤退を余儀なくされるという構想だったのではないかと思います。小諸城の重防御は、武田氏の後詰あって初めていきるものだったのです。

その後の小諸城を巡る動きを見ると、あながちこの考えは間違っていないように思います。

小諸に戦火が迫ったのは、織田信長による甲斐侵攻時です。

小諸城主の武田信豊(第4次川中島合戦で戦死した武田信玄の弟、武田信繁の子)は小諸で再起を図ろうとしますが、滅亡への坂を転げ落ちていた甲斐の武田本家に小諸城を後詰する余力はなく、家臣の裏切りもあって信豊は自害して戦わずして開城しています。

もし武田氏に余裕があれば、小諸城を後詰して甲斐北部からの織田勢の侵攻を防ぎ、甲斐・信濃国境(もしくは諏訪あたり)で戦線を立て直す事が出来たかもしれません(まぁ仮に上手くいったとしても、武田氏は背後の後北条氏も敵に回していましたから、滅亡は避けられなかったでしょうけど・・・)

時代が変わり、仙石秀久が小諸を領した時代は、関東の徳川家康に対する備えであったでしょう。信濃に侵攻してくる徳川勢に対して上方から援軍が来るのを待つ構想があったのでしょう。

江戸幕府時代は、西もしくは北からの侵攻に対して、江戸の徳川軍援軍が来るまでと、小諸城の役割は変わっていません。

そういう視点で小諸城趾を見ると、ひと味違った感想をもてるかもしれません。

それではまた。






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Last updated  2012.06.20 00:10:14
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