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カテゴリ:プラモデル・大戦機
百式司偵の武装司偵隊と、米軍超重爆撃機B29「スーパー・フォートレス」との実際の戦いについて、触れてみたいと思います。 ここでは武装司偵を駆って、最多の戦果を上げた独立飛行第十六中隊高戦隊(後に独立飛行第八十二中隊に組織改編)を中心に見てみたいと思います(今回のプラモデルのマークも十六中隊のものです)。 第十六中隊が属したのは近畿・中部地域の防空を担当した中部軍です(基地は大正飛行場(現在の大阪・八尾空港))。もともとは来襲してくる敵を発見する事が目的の偵察部隊でした。初めは独立した部隊ではなく、防空戦闘機隊の飛行第十三戦隊に属して、偵察に従事していました。 それが任務が180度変わる防空戦闘機隊が部隊内に創設され、20mm機関砲2門を装備したった武装司偵が配備されはじめたのは、昭和19(1944)年10月末のことでした(正式な部隊発足は翌11月。余談ですが十六中隊では「武装司偵」とは呼ばず、高々度戦闘機の略、「高戦」という名称を使っています)。 戦争は日本側の敗色が濃くなっており、サイパン島、テニアン島陥落により、B29による本土空襲の危機が迫っていました。 情報収集を軽視したと言われる日本ですが、アメリカが開発中の重爆撃機B29のおおよその性能は、試作機が飛行(1942年9月)した数ヶ月後にはつかんでいました。ただし防空担当者が危機感を持っても、上層部の多くは関心が薄く(「歩兵は三八式歩兵銃で頑張っているのに、贅沢ばかり言うな」と怒る将官もいたようです)、また、B29に対抗できる戦闘機の開発も、日本の工業力と技術力では簡単に開発できず、準備は遅々として進みません。 そして高々度を飛ぶことが出来る百式司偵は、高々度戦闘機が開発、配備されるまでの間のピンチヒッターとして、防空戦闘機への改造を余儀なくされることになったのです。 こうして第十六中隊に配備された武装司偵ですが、偵察部隊のため、部隊内には戦闘機パイロットとしての訓練を受けた者は一人もいません。そこで戦闘機部隊から教官が派遣され戦技教育を受けることになりますが、やはり大変だったようです。 なにせ偵察機のパイロットは、敵機の遭遇したら逃げる行動が身についています。さらに教える教官側の方は、つい格闘戦の動きをとってしまいがちで、急機動しようものなら空中分解する華奢な機体に閉口したようです。 隊では訓練が続いていきますが、第十六中隊は本来の偵察任務もあるため、パイロットを自隊でまかないきれなくなってきました。そこで戦闘機隊や軽爆撃機出身のパイロットも集められ、生粋の司偵乗りは成田冨三中尉ら少数になってしまったようです。 最終的に、小回りの効かない武装司偵の戦い方は、一撃離脱方式と言うことで決まり(とうより、機体強度が弱すぎて格闘戦などとても出来なかったため)、機体は16機が配備されていよいよB29との戦いを迎えることになります。
この日、八丈島の電波警戒機(レーダー)が、北上する米軍機の大部隊を探知し、関東から九州に至る陸軍防空戦闘機隊全てに警戒態勢が発令されました。 関東から九州とは範囲が広すぎですが、航続距離が約5200km(4.5トンの爆弾を搭載した場合です。爆弾搭載量によって航続距離は増減します)ものB29の爆撃想定地域は広く、的が絞れなかったのです。この傾向は最後まで日本側を悩ませることになります。 警戒態勢発令により、第十六中隊偵察隊の百式司偵3型が索敵に飛び立ちました。続いて成田中尉ら高戦隊が次々と離陸、高度1万メートル目指して上昇を開始しました。 さすがに高々度飛行能力の高い武装司偵は、一緒に迎撃に飛び上がった陸軍の二式複戦(正式名は二式複座戦闘機、愛称は「屠龍」)や三式戦「飛燕」が、8千メートルから上に中々行けずに四苦八苦しているのを尻目に、約40分で高度1万メートルに到着して空中待機し、情報を待ちました。 そして紀伊半島西部を哨戒していた百式司偵3型が、伊勢湾を北上するB29の大編隊を発見し、この日の爆撃目標は名古屋にある三菱重工発動機製作所の公算大という急報がもたらされました。 高戦隊はジェット気流にのって名古屋へ急行、名古屋爆撃中のB29群への邀撃戦を開始しました。 高戦隊は奮戦するも、B29の強力な防御火力と重装甲に阻まれ、圧倒的な性能の差を見せけられることになります。 初陣でのB29撃墜は1機のみ、しかもそれは被弾した中村少尉の武装司偵が、B29に体当たりして自爆した結果でした(中村少尉は戦死。後部座席に乗っていた偵察員の若林兵長は、激突の際機外に放り出されパラシュートで生還しています)。 続く12月18日の名古屋空襲でも、高戦隊は奮戦するものの2機を失い(鈴木少尉・中村曹長のペアと古後准尉・関川伍長のペア。いずれも戦闘中被弾して、B29に体当たりして戦死しています)、22日の名古屋空襲では高橋軍曹機(この機に同乗者はおらず戦死したのは高橋軍曹1人)が体当たりで散っています。 3回の出撃で機材の1/4と、6名の搭乗員を失う痛手を被っています。これは1機あたり13門もの機関砲(20mm機関砲1門、12.7mm機関砲12門)を搭載したB29の重武装に加え、攻撃方法に問題がありました。 高戦隊は戦闘機のセオリーどおり、敵後上方もしくは後下方から追尾しながら攻撃を仕掛けていました。 空中戦は英語では「ドッグファイト(dog fight)」と言います。後ろをとった方が射撃に有利な位置を占められることから、敵味方とも犬の喧嘩と同じように、後ろに回り込もうと激しい機動を繰り返します。そして後ろをとった方がまず勝ちます。 しかしそれは戦闘機同士の話で、B29のような重爆撃機は、後方や上方、下方に射撃可能な旋回機銃をもっており、さらに大編隊でフォーメーションを組んで反撃してくるため、高戦隊はB29の何十門もの集中砲火の中に自分から突っ込んでしまう羽目になったのです(成田中尉はその様を「敵曳光弾(その名の通り燃えてひかりながら飛ぶ弾です。光で射撃方向などを把握修正したりするため、何発かに1発組み込んであります)の輝きで、風防ガラスが赤く染まり、前が見えないほどだった」と回想しています)。 防弾装備のない武装司偵は弾丸の豪雨に晒され、わずかな被弾で致命傷を負ってしまい、それが体当たり攻撃へと繋がってしまったのです。武装司偵はB29と同じ土俵に上がれるものの、防御力や機体の旋回能力、いずれもまともに殴り合い出来る機体ではなかったのです。 これらの教訓から、第十六中隊では後方からの攻撃をやめ、前上方・前下方からの攻撃もしくは、大編隊の端の機(端っこのため当然僚機からの援護射撃は少ない)を狙って仕留めていく方法に切り替えます。 武装司偵の苦戦に、航空本部側もアイデアを出しました。 操縦席と偵察員席の真ん中に、仰角70度の高角度で37mm機関砲を付けた機を思いついたのです(タミヤのプラモデルの箱絵はこれです)。この砲は強力で当たれば一発でB29を粉々に吹き飛ばす威力があり、下から狙い撃ちできるから、高々度1万メートルまで登らずに済むという目論見でしたが、残念ながら企画倒れに終わりました。 20mm機関砲を2門付けただけで重くなって1万メートル上がるのに大変なのに、さらに重たい37mm機関砲を付けた機は、7500メートルぐらいまでしか上がれず、銃身が空気抵抗をよんで速度も出ず機体も不安定の上に、着陸時にひっくり返りそうになるなど散々な状態で、他の武装司偵隊でも一度もB29に向かって発砲しないうちに全部撤去されました。 もう一つタ弾という日本独自の秘密兵器も武装司偵に装備されました。 タ弾とは今で言うところの空対空クラスター爆弾です。約60kgの爆弾内に76発の小型爆弾が詰められており、敵より高い高度で投下すると小型爆弾が散開し、敵機に当たると爆発して撃墜するというものでした。 しかし今のようにレーダーや赤外線探知の追尾・起爆システムではなく、パイロットが目視で爆弾を落として命中させなければならなかったので、命中率は非常に悪いものものでした。 私の知る限り、このタ弾攻撃を何度も成功させて敵機を落としたのは、海軍の撃墜王岩本徹三氏ぐらいだったでしょう(岩本氏の回想だと、うまく命中させることが出来れば、重爆撃機を一度に7、8機は落とせたようです)。 そしてこのタ弾でも問題点があるのは、B29より高く飛ばなければならないと言うことでした。武装司偵はただでさえ重くて、普通の百式司偵3型より高いところ登るのが大変なのに、B29より上は難しい話です。仕方なく、非武装の偵察隊の百式司偵3型がタ弾を装備して急襲を掛けることになりました。 重量の話では戦闘が進むにつれ多くなってきたのが、後部座席の偵察員を搭乗させないで飛ぶ機が増えた点があります。 いかに高々度飛行が出来るとはいえ、武装して重量が増した武装司偵では、やっぱり楽ではなかったのです。しかしB29の邀撃は夜も多かったので、偵察員が乗っている方がパイロットはずっと楽です。それに偵察員は通信手も兼ねているので、敵情の連絡などもすぐに把握できます。 結局、隊長機と経験の浅いパイロットは2人乗り、経験を積んだベテランは1人乗りという傾向になったと言います。 このように戦闘での手痛い教訓をもとに、戦い方を変えた高戦隊は、より熾烈な昭和20(1945)年の戦いを迎えることになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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