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カテゴリ:プラモデル・大戦機
昭和20(1945)年の戦闘は1月3日から早くも始まっています。パイロットたちにとって正月もなかったのです。 次の1月14日の戦闘では、日本の防空戦闘機隊はB29の長大な航続距離に振り回される形となりました。 B29の大編隊は紀伊半島を北上していたため、陸軍防空司令部では阪神地区への空襲と考え防空戦闘機隊を大阪・神戸上空に集中させましたが、B29は大阪の手前で突如変針し、日本戦闘機隊の手薄な名古屋の三菱重工飛行機工場を爆撃しました。 この動きに追従できたのは、速度がB29を上回る武装司偵だけでした。 爆弾を投下して高速で離脱するB29を捉えたのは、後藤信好曹長(彼のスコアはB29撃墜3機、撃破2機)の武装司偵でした。この時後藤曹長はB29を後ろから追いかける愚を避け、一端降下して勢いを付けて前に回り込むと、前下方から急上昇しながら一撃を加えB29を1機撃墜しています。 戦訓から前方からの攻撃に変更したのは正解だったようです。この頃から第十六中隊高戦隊の戦果は上がっていきます。もちろん高々度での戦闘に、搭乗員たちも慣れてきたのもあるのでしょう。 ただ前方からの攻撃も容易ではないのは、下手をするとB29と空中衝突する危険が高まったことです。後ろから追いかける際はぶつからないよう気をつけられますが、前からだとお互い全速力で突っ込むため、相対速度は時速1千km近くになり、回避するまもなく衝突する可能性が高かったのです。またすれ違った後に来る猛烈な集中砲火の中離脱するのは大変な恐怖があったようです。 成田冨三大尉(中尉から昇進)も、あまりの苛烈な砲火に思わず急旋回の動きをとってしまい、後部席から強ばった声で「大尉殿! 速度出過ぎです。翼が折れます!(事実、翼は1メートルぐらいバタバタと上下にしなっていたようです)」と言われ、慌てて出力レバーを引き戻すことがあったようです。 ただ戦果は上がってきても犠牲の方は大きく減ることはありませんでした。1月3日の戦闘では小坂三男中尉機が、1月23日の戦闘では川崎武敏軍曹・竹井逸雄少尉のペアが未帰還となっています。 2月末までに第十六中隊高戦隊があげた戦果は、B29の撃墜14機、撃破14機を記録しています。百式司偵の性能を考えれば大戦果といえます。そのため第十五方面軍(中部軍から改称)司令官河辺正三中将から感状が授与され、高戦隊は第十六中隊から独立して独立飛行第八十二中隊に改編されています(新中隊長は飛行二百四十六中隊から転属してきた南登志雄大尉)。 3月以降も独飛八十二中隊はB29迎撃の先陣として戦い続けています。 この頃になると、米軍側の戦術も大きく変化してきました。 当初は高々度から、工場地帯などを中心に爆撃がおこなわれていましたが、戦果が芳しくなかったため、中・低高度から焼夷弾による都市への無差別爆撃へと変更したのです(民間人の住む都市への爆撃に反対していた米軍第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は更迭され、積極的な焦土爆撃論者であるカーチス・ルメイ准将が就任しました。これ以降、東京大空襲を初めとする惨劇が繰り返されていくことになります)。 爆撃高度が下がってきたので、高々度性能が劣る日本戦闘機でも迎撃しやすくはなったのですが、まもなく米軍側は硫黄島の飛行場が使えるようになったため、P51「マスタング」戦闘機がB29護衛に随伴するようになり、日本側の迎撃は犠牲が多くて成果が上がらなくなります。 中隊長南大尉は6月1日の戦闘で戦死し(このため成田大尉が新しい中隊長となっています)、これまでの戦闘でB29撃墜3機、撃破6機の個人戦果を持つ鵜飼義明中尉も6月7日の淡路島上空の戦闘でB29に体当たりして散りました。 7月になると米戦闘機の跳梁により、武装司偵の出撃機会は激減しました。なんせもとは偵察機の武装司偵は、本職の戦闘機にかなうはずがありません。さらに一連の戦闘での損害が、機材と搭乗員の補充を上回り、稼働機も激減していきます。 そして独飛八十二中隊は8月10日付で千葉県東金に司令部を置く第二十八独立飛行隊に編入され、大正飛行場(現在の大阪・八尾空港)を去ることになりました。米軍の来るべき日本上陸作戦が、南九州と関東に想定されていたため、関東地区の航空戦力を増強する必要があったのです。 この時、独飛八十二中隊の稼働機は2機にまで激減しており、実質的な戦力を喪失していましたが、敗戦5日前、すでに日本は消耗しきった名ばかりの航空隊を引き抜いて、かき集めるしか戦力を集める手段は無くなっていたのです。 もっとも、米軍機の跳梁する空を移動出来る隙はなく、独飛八十二中隊は大正飛行場で終戦を迎えることになります。 高戦隊最後の出撃は終戦の翌日8月16日の朝でした。戦争は終わっていましたが、米機動部隊接近の情報が入り、攻撃してくる可能性が懸念されたため、独飛八十二中隊に偵察と哨戒が命じられたのです。 燃料補給中の事故(電力不足のため、ロウソクの灯りを使って給油中、引火して1機が燃えてしまったのです)により、成田大尉のみの単機出撃となりました。 途中B29と遭遇しましたが、B29は全速で離脱し(やっぱり戦争が終わっていましたから、米軍側も戦いたくなかったのでしょう)、成田大尉も進路を北に変針し海軍の岩国基地に着陸して、武装司偵の9ヶ月に及ぶ戦いは終わりました。 最後に度々名前を出してきた成田冨三大尉について触れたいと思います。 成田大尉はもともと司偵乗りでしたが、高戦隊創設に伴い武装司偵のパイロットとなりました。 指揮官としての彼は常に率先出動し、特に中隊長になってからは、稼働機が1機の時は自分が出撃するというスタンスを貫き通します(同じ姿勢を貫き通した事で有名なのは、「加藤隼戦闘隊」で有名な加藤健夫中佐(戦死後少将に特進)、やはりB29迎撃に活躍した第244戦隊の小林照彦少佐など、陸軍に多くいます。ちなみに最後の飛行時、燃えてしまったのは成田大尉の乗機で、残った後藤信好准尉(曹長から昇進)機を「お前は残れ、俺が行く」と、出撃しています)。 これがいかに大変なことかは言うまでもありません。 終戦までに成田大尉があげた戦果は、B29撃墜7機、撃破8機で、武装司偵隊最多の戦果を上げています。さらにB29や護衛のP51による攻撃で被弾し、不時着数回、使用不能になった武装司偵は4機にも及んでいます。 「資質温厚にして不屈の気魄。真に空中戦士の亀鑑たり」とは、北島熊男少将(第11飛行師団長)が、成田大尉に授与した賞詞の一節ですが、この言葉に恥じない戦いぶりだったのは間違いないでしょう。 武装司偵の戦いぶりはあまり知られておらず、また彼の名は歴史に埋もれてしまっていますが、少しでも興味を持ってくれた方がいたらいいなと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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