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カテゴリ:プラモデル・大戦機
前回に続けてドイツ機です。 ドイツ機にはさほど関心はないのですが、このBf109F-4を駆って撃墜王になったとある人物については思い入れがあります。 と言うわけで、熱砂の戦場を駆け抜けぬけた、一人の青年の話をしたいと思います。 その人物の名はハンス・ヨアヒム・マルセイユ。「アフリカの星」とうたわれたドイツの撃墜王の1人です。 彼を描いた作品には、1957年のドイツ映画(当時に西ドイツ)『撃墜王アフリカの星』があります。私が中学生の頃、生まれてはじめてみたドイツ映画でもあります。 ハンス・ヨアヒム・マルセイユの総撃墜数は158機です。 300機を超す撃墜王が多数いるドイツ軍の中では、取り立てて凄い数字に見えませんが(第二次大戦中100機以上の撃墜記録のあるパイロットがいるのは、ドイツと日本だけで連合国側にはいません。日本では岩本徹三(202機)、西澤廣義(120機)がいます)、撃墜した敵機の全てが西側連合軍機だったので、イギリスやアメリカでの知名度が高い人物です。 彼の人物像は、好意的な言い方をすればやんちゃ坊主、悪い言い方をすれば問題児でした。 映画でも出てくるエピソードは、飛行訓練生時代、単独飛行中に方位を見失ったマルセイユは、なんとアウトバーン(高速道路)に着陸して道を尋ねるというとんでもないことをやっています。 もちろん軍に苦情が殺到し、上官から大目玉を喰らっています。 射撃訓練をやれば、標的に激突寸前まで近づいて発砲して、やはり上官から叱責されています。 上官としては訓練で事故が起きては大変ですから、危険なことやるなということになりますが、本人は「的に近づけば確実に当たりますし、弾の節約にもなります」としれっとしています(もっとも、マルセイユの考えは決して間違っていません)。 一事が万事この調子ですから、上層部からの受けは悪く、バトル・オブ・ブリテンでは計7機撃墜してエース(撃墜王)の仲間入りしているのに、昇進も見送られて働きを正当に評価されていません。 彼に大きな転機が訪れたのは、北アフリカに派遣される第27戦闘航空団(JG27)に転属したことです。 JG27でマルセイユの上官となったエドゥアルト・ノイマン大尉は、口やかましく規則を押しつけるタイプではなく、各パイロットの自主性を重んじて長所をのばす教師のような人でした。 ノイマンのもと、マルセイユは才能を開花させていくことになります(そんな経緯から、上官の小言など普段は気にもとめないマルセイユも、ノイマンには生涯頭が上がらなくなります)。 そしてもう一つの転機は、乗機がBf109EからBf109F-4に変わったことです。 E型とF型の大きな違いは、空気抵抗が減るよう機体を全面改修したことです。外見を比べると、F型は贅肉をそぎ落としたような精悍なスタイルをしています。 またE型までは無理をして翼に20mm機関砲を搭載していましたが(構造上メッサーシュミットは翼の中に武装は入れることが難しい作りだったのですが、多銃装備の英軍戦闘機に対抗するため、強引に搭載していました。そのためE型はメッサーシュミットが本来持つ運動性能は全く出せませんでした)、それを撤去して機首に20mmのモーターカノン砲を搭載しました。 機関砲は半減したものの、モーターカノン砲の命中率は高く、運動性の向上と重なって、第2次大戦中盤、メッサーシュミットF型は比類無き強さを発揮していくことになります。 アフリカでのマルセイユの戦果は、驚異的なものになっていきます。Bf109F-4は彼の感性にピッタリあった機だったようです。 マルセイユの戦い方は、スピードと上昇力を活かして奇襲を仕掛けると、慌てて散開した敵機を1機ずつ仕留め、敵が形勢を立て直すと一端急降下して離脱し、再び全速力で上昇して敵編隊を襲撃して落としていくというもので、F型の性能をいかんなく発揮したものでした。 さらにもう一つ彼の特技は、敵機の未来位置を予測して射撃する偏差射撃の名人でした。僚友たちは、「敵はマルセイユの弾に当たりたくて、自分から飛び込んでいくようだ」と表しています。 50機、60機と順調にスコアを重ねていくマルセイユに、地中海方面のドイツ空軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥はエースの特典として、専属機と固定のナンバーを持つことを許します。 マルセイユは自分の搭乗機に「黄色の14(意味は第3中隊14号機です)」を選び、現在でも「黄色の14」と言えば、マルセイユを意味するほど有名になっています。 またドイツ本国でも、ゲッペルス宣伝相の巧みなプロパガンダ演出により、マルセイユは「アフリカの星」と名付けられ、英雄として祭り上げられて行くことになります。 容姿も、今だったらアイドルになってもおかしくないほどの甘いマスクだったこともあって、女性からの人気は絶大だったといわれています。 もっともマルセイユ本人は、英雄として祭り上げられていく事に違和感を覚えていたようです。休暇で帰国した際、子どもたちからサインをねだられた時などは快く応じているものの、政府や軍部高官との会食や取材攻勢、講演などに引っ張り回され、家にいてもプライベートのない英雄扱いに辟易したようです。 彼がアフリカに戻った1942年6月、アフリカ戦線は大きな転換点を迎えていました。ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア軍の反撃で、英軍はガザラの戦いで大敗し、交通の要衝トブルクはドイツの手に落ちました。 ドイツ軍は逃げる英軍を追って、エジプト領内へ侵攻しました。 ドイツ空軍は引っ張りだこで、マルセイユは1ヶ月間になんと54機もの英軍機を撃墜しています。さらに9月1日には1日で17機撃墜という、空戦史上最多の戦果もあげています。 この頃、JG27では新型のメッサーシュミットG型への機種変更が進められていました。 しかしマルセイユはG型に乗ろうとせず、相変わらずF型に乗り続けていました。 前のブログでも触れましたが、G型はメッサーシュミットの中で最も生産された安定した性能を持った機ですが、不具合が解消されるまでは少しタイムラグがあったのです。 一向にG型に乗ろうとしないマルセイユに、ケッセルリンク元帥はG型に乗るよう命令を出しました。彼の撃墜数はすでに150機を超え、アフリカ戦線になくてはならないVIPでした。万が一マルセイユが戦死するような事態になったら、アフリカ軍団の士気にも関わります。G型はF型に比べて防弾性能が向上しており、G型の方が安全とケッセルリンクは考えたのです。 総司令官の命令に、しぶしぶG型に初搭乗した1942年9月30日、事故は起こりました。 この日、12機のメッサーシュミットは、カイロ上空を索敵飛行し、英軍機と遭遇することなく引き揚げを開始しました。 味方勢力圏まで25kmの地点で、マルセイユ機のエンジンが故障して黒煙を上げます。さらにガソリンが噴き出し、操縦席は視界がきなくなりました。 地上の管制室にいたノイマン少佐は、すぐに脱出を指示しましたが、下は英軍の勢力圏であったため、マルセイユは味方の勢力圏まで飛ぶことを決意しました。 しかしこれが彼の命取りになりました。コクピットに充満した煙と気化したガソリンで、マルセイユは朦朧として、判断能力が極端に低下してしまったのです。 数分後、ドイツ側の勢力圏に入り、マルセイユはパラシュートによる脱出を決意しましたが遅すぎました。彼の意識が飛びかけていただけではなく、機体の方も限界を超えていたのです。 マルセイユが脱出しようとすると、機体はコントロールを失って失速し、機外にようやく飛び出したマルセイユは尾翼に激突、パラシュートは開くことなく地上に落ちました。 こうして「アフリカの星」はアフリカの大地に、22年と10ヶ月の生涯を閉じました。 プラモの塗装は、マルセイユが50機落とした時の搭乗機のものです。マルセイユの乗機は何種類かありますが、一番絵になるせいか、この塗装にする方は多いようです。私も迷いませんでした(笑)
メッサーシュミット Bf109F-4 データ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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