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カテゴリ:激動の20世紀史
久々のキューバ危機の話のブログです。 最初はキューバ危機(1962年10月14~28日)が終わる10月28日までに、ブログを書き上げようと思っていたのですが、全然間に合いませんでした(汗)。 さてソ連がキューバに核ミサイルを配備しはじめた1962年8月、アメリカ側もキューバにソ連貨物船が大量に到着しはじめていることに気がつきました。 時のCIA(アメリカ中央情報局)長官ジョン・マコーンは、ジョン・F・ケネディ大統領に「ソ連が核ミサイルをキューバに持ち込んでいるのでは?」と懸念を伝えています。 しかしマコーンの意見は何かしらの具体的な証拠を持っていたわけではなく、憶測にすぎなかったため、ジャック(ケネディ大統領の愛称)は、真剣に耳を貸そうとしませんでした。 これだけを見ると、ケネディ大統領の危機意識の欠如と思い方もいるかもしれませんが、ピッグズ湾事件の失態もあってケネディのCIAに対する目は厳しく、具体的な証拠を伴わない話に、取り合うつもりはなかったのです。 また、ソ連という国はスターリン時代からの体質として、貴重な兵器や装備ほど隠して手元に置いておきたがる傾向がありました。 そのためケネディ政権は、別段キューバに対する監視を強化することはありませんでした。 そして1962年10月14日、運命の日は人知れずやってきました。 この日、キューバ上空をアメリカの戦略偵察機U2が偵察飛行し、キューバ側の妨害もなく基地に帰投しました。 アメリカのキューバへの偵察飛行は定期的におこなわれていました。それは核兵器配備を警戒していたからではなく、通常兵器の援助をソ連から受けて、日々増強を続けているキューバの軍事力を監視するためでした。 5時間のフライトを終えたパイロットは、整備員たちが撮影されたフィルムを下ろし、厳重に格納しているのを横目で見ながら待機所に戻り、仲間と談笑しながらコーヒーを飲んでいます。 もちろん操縦していた彼は(カメラは最初の設定の後は自動撮影ですから、ファインダーをのぞいていたわけではありません。また上空2万メートルからの撮影ですから、見ていても気がつかなかったでしょう)、自分が撮影したものが世界を揺るがす大事件になるとは思いもしなかったのです。 ペンタゴン(アメリカ合衆国国防総省)に運び込まれたフィルムは、普段どおり画像分析チームがフィルムを受け取り写真の分析を開始しました。 繰り返しになりますが、この時点では危機感を持ってみている人はいません。パイロットも画像分析チームも、通常の任務、仕事を淡々としているだけでした。 そんな中、画像分析チームの1人が、奇妙な物体を発見しました。 それはキューバの首都ハバナの南西85kmに位置するサンクリストバルという地点の拡大写真に、巨大なコンテナが隠れるように写っているのに気がついたのです。 さらに写真の他の部分の調査がおこなわれた結果、20基以上のコンテナ、輸送用の大型トレーラーや、護衛の兵員を乗せたトラック、装甲車両も確認されました。 チームは不眠不休で分析にあたり、トラックとの大きさの比較から、コンテナはミサイルではないかと疑いました。 報告書を読み蒼白となったバンディは、その足でケネディ大統領のもとに向かいました。 バンディの話を聞き、事の重大さに驚愕したケネディは、ただちに閣僚を招集して緊急会議を招集しました(後に「最高執行評議会(エクスコム)」と命名されます)。 ただこの時点では、ミサイル発見の報は厳重な情報管制がされており、また閣僚が集まっていることをマスコミ、ソ連側に悟られないよう内密に集まるよう指示されました。おかげで司法長官ロバート・F・ケネディ(ケネディ大統領の実弟)、国防長官ロバート・S・マクナマラ、国連大使アドレー・スティーブンソンらは一台のリムジンに押し込められて、ホワイトハウス入りしました(毒舌家でもあるロバート・ケネディはこの時の事を「今度こういう事がある時は、一緒に車に乗る人選を考えてほしい。隣に座った男(国防長官のマクナマラのこと)の尻がでかくてたまらなかった」と発言し、対するマクナマラは「本当は嬉しかったくせに」と言い返しています。もちろん、2人ともそういう趣味があるわけではなく、冗談言っているだけですけどね)。 第1回目のエクスコムは、16日の11時57分に開催され、約1時間で終了しました。この時は情報が第一報だけだったこともあって、情報の共有と大まかな方針の方向性の検討だけでした。 この時閣僚の多くは、キューバの核ミサイル基地への空爆、侵攻を主張しています。 映画『13ディズ』では武力行使に終始反対していたように描かれているロバート・F・ケネディ司法長官も、この時点では空爆を支持しており、彼も戦争か、外交交渉による解決かに揺れていたことがうかがえます。 会議が終わった後、ロバートは兄ジャックに、密かに走り書きのメモを渡しました。 「兄さん、僕は今、真珠湾攻撃を決断した東條首相の気持ちが、よく理解できるよ」 と書かれていました。 話はずれますが、ロバートは親日家と言えるかどうかわかりませんが、かなりの知日派だった人です。 第2次大戦集結から約15年、この頃アメリカでは、かつてアメリカが日本に突きつけた対日最後通牒「ハル・ノート」を初めとするアメリカの対日政策が知られるようになってきた時代でした。 特に「ハル・ノート」は、内容が知られるようになると、知識人などから「これは実質的なアメリカからの宣戦布告ではないか」という意見も出始めていました(コーデル・ハル元国務長官は、「宣戦布告ではない。日本が誤った解釈をしたのだ」と釈明しています)。 そんなこともあって、日米開戦時の首相だった東條英機に関しても、戦争を決断するよう追い込まれた一面があったのではないかという同情論が出始めたのもこの頃です。 ロバートは当時の日本の状況と、今アメリカが置かれた状況が似てると、評したのです。 このシュールな弟の助言が、キューバへの武力侵攻やむなしに傾きかけていたケネディ大統領に、「結論を出すのは早すぎる」と自制させることになりました(もちろん、ロバートの意図は、兄が誤った判断を下さないよう落ち着かせることにありました) 。 キューバにソ連の核ミサイルが配備され続ける状況は、断固阻止しなくてはいけません。しかし安易な武力行使は、第3次世界大戦を引き起こしかねません。ソ連がどういう意図で核ミサイルを配備したか、さらに本当に核ミサイルなのか多くの人命がかかっている以上、確認しなくてはいけないことはまだたくさんあります。 まだ危機を知るものは少数ですが、こうしてキューバ危機は静かに始まりました。 次はアメリカ政府内での方針を巡る激論と、対応について触れてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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