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カテゴリ:激動の20世紀史
今回、エクスコム(最高執行評議会)の結論が出るまで書く予定でしたが、脱線が多くてたどり着きませんでした(汗)。 第2回のエクスコムは、ミサイル発見の同日である16日午後18時に始まりました。 2回目の会議からジョン・F・ケネディ大統領は出席していません。「大統領が同席していると、皆が闊達な議論が出来ない」と、大統領の実弟、司法長官ロバート・F・ケネディが主張したためです。 もちろんそれはロバートの気遣いで、会議の結論が大統領の異に沿わな内容になっても、出席していれば最終決断を強要されかねないのを危惧したからでした。 2回目の会議でも、閣僚の多くはキューバ侵攻を主流する者が多く占めており、議論の内容もキューバへの軍事攻撃を、どうすれば正当化できるかという議論に終始していました。 しかし、「キューバに配備されたソ連の核ミサイルは、アメリカの安全を脅かしている」という主張だけでは、攻撃の大義名分になりません。 なぜなら、キューバにただ(核)ミサイルを運んだだけで攻撃が正当化できるなら、アメリカの核ミサイルが配備されている西ドイツやトルコに、ソ連が軍事侵攻することも正当化できることになってしまうからです。 エクスコムの議事録には、ロバート・ケネディの過激な発言が残っています。 「グァンタモ湾に、メイン号のような船はいないのか?」 アメリカ史に詳しい方でないとピンと来ない方も多いと思いますので、ここで脱線して解説します。 メイン号はアメリカの戦艦で、1898年2月15日、キューバのハバナ湾で爆発、沈没しました。 当時キューバはスペイン領で、キューバはスペインからの独立闘争が続いていました。キューバの独立派をスペインは苛烈な弾圧を強いていて、アメリカはそれを批判していました。そんな中での事件でした。 メイン号の災難は、現在では火薬の自然発火説(軍艦は動く火薬庫ですから、何らかの原因で発火して爆発するという事故は、珍しくありません)が有力ですが、当時のアメリカの世論は、スペインの破壊工作と決めつけて、激しい非難が起きました。 メディアはスペイン討つべしで沸騰し、それに煽られる(もしくは利用する)形で、アメリカ政府はスペインに宣戦布告、米西戦争(1898年4月~8月)が起きました。 つまりロバートは、キューバ攻撃の口実を得るため、大義名分を自作自演できないか? と言っているのです(この発言には、毒舌家の彼らしい皮肉も多分に含まれていたにではないかと思いますが)。 結局第2回のエクスコムでも結論は出ず、ソ連・キューバ側の先制攻撃に備えて、演習を名目にした軍の動員を開始するという点だけ合意して終了しました。 第3回目のエクスコムは、翌17日午前中に開始されました。 そしてこの第3回目から会議は大荒れになっていきます。 前日まで空爆を熱烈に支持していたロバート・ケネディが、「空爆以外に手はないのか?」と言いだしたのが発端でした。 一晩たって落ち着いたロバートは、今更ながら、侵攻一点張りになっているエクスコムの空気に危機感を持ったのです。 他の選択肢も慎重に検討した上で、武力侵攻やむなしに結論が至るならかまわないが、最初から侵攻の話しかしていないのでは、議論になっていないと彼は気がついたのです。 また、国防長官ロバート・S・マクナマラの発言が、さらに波乱を巻き起こします。 「国防総省で検討したが、キューバにどれだけの核兵器が持ち込まれたかわからない以上、爆撃でミサイル施設の全てを破壊することは不可能という結論に達した。そうなると陸上部隊をキューバに侵攻させるしかない。だが陸上部隊の侵攻前に、1発でもミサイルが無傷で残れば、報復の核攻撃を受けることになる」 マクナマラの発言は、爆撃を主張する閣僚の大半が、(無意識であったとしても)見て見ぬふりをしていた最悪の展開を、目の前に突きつけるものでした。 ロバートとマクナマラの「造反」に対して攻撃賛成派(厳密な色分けは難しいですがこの時は、ジョン・A・マコーンCIA長官、マクスウェル・D・テイラー大将(統合参謀本部議長)らが攻撃賛成派の筆頭でした)は、「外交交渉でミサイルを撤去させるのは難しい。空爆で建設中のミサイル基地を潰し、しかる後に陸上部隊を侵攻させるのが最善だ」と主張しました。 さらにロバートは、攻撃賛成派のメンバーから「ボビィ(ロバート・ケネディの愛称)、ミュンヘン会談の結果を知らぬ君ではあるまい。あの安易な妥協がナチスを勢いづかせた。今回もその轍を踏むつもりか」と詰られたと回想しています。 ミュンヘン会談の話は、ロバート(というよりはケネディ家にとって)、二重の意味で耳の痛い話になります。 ここでまた脱線しますが(今回も脱線多いなぁ)、その事情について触れたいと思います。 ミュンヘン会談は1938年9月に英仏独伊4カ国でおこなわれた会談です。 当時、ドイツ系住民が大半を占めていたチェコスロヴァキア領スデーテン地方を、アドルフ・ヒトラー総統が「スデーテンはドイツのものである」と主張して、ドイツとチェコスロヴァキアは一触即発の状態になっていました(スデーテン危機)。 この事態にイギリスとフランス、イタリアなどが介入し、ミュンヘンで会議がおこなわれました。 チェコスロヴァキアは英仏がヒトラーの野心を挫いてくれることを期待しましたが、戦争を避けたい英仏は、ドイツが今後他国に領土を要求しないことを条件に、ヒトラーの要求をほぼ全部飲む形で会談は終了しました。 会談の結果に、チェコスロヴァキアが絶望したのは言うまでもありません。 当事者なのに会談に出席させてもらえなかったあげくに、自国の領土スデーテン地方をドイツに奪われました。 そしてヒトラーは、どのような無理難題を他国に要求しても、英仏は戦争を恐れてドイツを妨害しない考え、ミュンヘン会談の約束を反故にして、ポーランドにも領土割譲要求を突きつけます。 つまり、ミュンヘン会談の妥協、宥和政策は、戦争を回避するどころか、世界大戦の導火線となっただけに終わったのです。 今回のキューバの問題も、一歩間違えば同じ事になると言う批判は、その可能性を地震でも否定しきれていないロバートにとって、反論できない話でした。 そしてもう一点、このミュンヘン会談には、実はジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)とロバートの父ジョセフ・P・ケネディが関わっていたのです。 ジョセフは当時駐英大使でしたが、大のナチスドイツとヒトラー贔屓で、会談前チェンバレン英首相にドイツの要求を飲むように圧力をかけていました(ジョセフの言動が、どの程度チェンバレンに影響があったかは定かではありません)。 その後も親ドイツ的な言動や行動を、第二次世界大戦が始まってからもとり続けたためルーズベルト大統領の逆鱗に触れ、駐英大使を更迭されて政治生命を絶たれました。 ジャックとロバートにとって、ミュンヘン会談は父の恥に繋がる出来れば聞きたくない話なのです。 ミュンヘン会談を引き合いに出されて、ロバートは返答に窮しました。実際彼も、本震では戦争を避けられないと思っていたこともあって、答えようがなかったのです。 「なぁ、ボブ(ロバート・S・マクナマラ国防長官の愛称)。何か攻撃以外の手はないか? どんなばかげた提案でも笑ったりしないから披露してくれよ」 ロバートは盟友でもあるマクナマラに意見を求めました。 マクナマラはチラッとロバートを見て少し躊躇った後、意見を口にしました。 「1つだけ考えたことがある。だが結論から言えば、キューバに運ばれたミサイルを撤去させることは出来ない。戦争が避けられなくなった場合、悪影響も考えられる。 前置きが長いのは、マクナマラも自分の意見に自信がないためです。しかしこれでようやく軍事侵攻以外の選択肢がようやく出ました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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